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日本人のこころ 77
立花隆『サピエンスの未来』

(APTF『真の家庭』298号[20238月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

超進化で科学と宗教が一つに
 2021年に急性冠症候群のため80歳で亡くなったジャーナリストの立花隆は『田中角栄研究 全記録』(講談社、1976年)や『宇宙からの帰還』(中央公論社、83年)、『臨死体験』(文藝春秋、94年)などで知られ、知に対する飽くなき探究から「知の巨人」と呼ばれました。

 立花自身が一番気に入っていた著作が『エーゲ 永遠回帰の海』(須田慎太郎写真、ちくま文庫、2005年)で、西洋文明の核心であるギリシャ・ローマ文明とキリスト教が連環するエーゲ海沿岸の無数の遺跡を、レンタカーで駆けめぐりながら、神と歴史と人間について洞察をめぐらせたものです。同書に比べると田中角栄研究は時間の浪費にすぎなかったと慨嘆しています。クリスチャンの家庭で育った立花は肌感覚で理解したキリスト教が知の構築の基本にあり、知を愛することが自身の生き方、倫理となったのです。

 そんな立花が1996年夏、東大で行った連続講座をまとめたのが『サピエンスの未来』(講談社現代新書)です。講座では、フランス人のイエズス会司祭で古生物学者だったテイヤール・ド・シャルダンの紹介は30分ほどでしたが、同書ではそれが過半になったのは、立花自身の思想的進化からでしょう。

▲『サピエンスの未来』(講談社現代新書)

 進化論に基づく人類史を論じたためパリのカトリック大学を追われ、中国で北京原人の発掘にかかわったテイヤールは、むしろその仕事で確信を深め、キリスト教神学と調和する進化論を周囲に語るようになります。西欧知識層の間ではアインシュタインと並ぶ20世紀の知性と評価されながら、バチカンによって生前の著作発行は禁じられ、友人らにより実現したのは1955年の彼の没後です。カトリック教会では30年に及ぶ公会議を経て、ヨハネ・パウロ2世がその進化論をようやく容認しました。

 テイヤールの思想はハラリの『ホモ・デウス』と見事に符合し、人類は超進化の途上にあり、その頂点で地球規模の頭脳ネットワークを実現するという、IT社会の未来を予見するような壮大なビジョンです。

 ダーウィンの進化論は競争による淘汰が基本ですが、近年の超進化論では、植物も盛んにコミュニケーションし、競争より共生によって地球全体の生命を豊かにしていることが明らかになっています。森には樹木の根のネットワークがあり、土中の菌類が根の栄養吸収を助けているのです。そんな「精神圏」こそ、キリストの「愛」の実現ではないかと、コンピュータの初号機が作られ、DNAがまだ解明されていない時代にテイヤールは、超進化論に合致するほどのレベルに、思想と信仰をさらに深めたのです。

 バチカンが進化論を恐れたのは、それを認めると信仰の核心である原罪とイエスによる贖罪が成り立たなくなるからで、宗教と科学の一致もそれが課題の核心になります。いわゆる原罪論はパウロが発想し、アウグスチヌスが神学化したもので、人々が持つ神への後ろめたさに触れることから、悔い改めを喚起する観念として普及するようになります。それが人々の信仰心、道徳心を高めたのは歴史的な事実ですが、後に発達する遺伝学と相容れないのは明らかでしょう。

スピノザの思想
 立花の思想を理解する補助線になるのが國分功一郎東京工業大学教授の『スピノザ』(岩波新書)です。

 スピノザの主著『エチカ』の語源はギリシャ語のエートス、エソロジー(生態学)と同じで、17世紀までに発達した自然科学の知見を踏まえ、人や生物の生き方に即した倫理を考察したものです。

 スピノザより30年早く生まれたデカルトは、「われ思うゆえにわれあり」として神と人を分離し、近代的個人主義の始まりとなります。それに対してユダヤ教の英才教育を受けたスピノザは、「聖書は真理の書ではなく道徳の書」だと言ってユダヤ社会を破門されながら、神は無限で自然も人もその中にあるとし、そこから善悪を考察したのです。

 その一節が「善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない」という定理で、善と悪との認識は「良心」なので、「良心と意識は同一」「善悪の判断から独立して中立的な意識が存在するという考えそのものを否定する」と解説しています。倫理の基本は、「他人がされたら嫌なことは自分にもしない」ことで、「自分を知り、自らの本性に従って有徳的に行動することが肝心だ」というものです。

 興味深いのは旧約聖書創世記の失楽園の物語に対するスピノザの解釈で、「神はアダムに、その木の実を食べたら必ずふりかかるはずの災いは啓示したけれども、禍がふりかかること自体の必然性は啓示しなかった」「善を善への愛から求めるべきであって、悪への恐れから求めるべきではないと、神はアダムに命じたように思われる」(『神学・政治論』)としています。

 これを國分教授は、「木の実を食べたのかと神に尋ねられた時、アダムはエヴァに勧められたからだと言い逃れをする。つまり、アダムには疚(やま)しさがあった。…エヴァが機嫌を損ねるという悪を恐れたのかもしれない」と解説しています。

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