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統一原理補講 3
アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理①

ナビゲーター:佐野邦雄

 「統一原理補講」は、1993年7月から1994年8月にかけて、あの伝説のメディア『氏族教会FAX-NEWS』に掲載されたシリーズです
 執筆者は、これまた伝説の原理講師、佐野邦雄氏です。30年の時を超えてよみがえる原理学習ページ。統一原理学習の補助教材としてご活用ください。(一部修正加筆し、小見出しを付け、読みやすく改訂しました)

(1)象徴献祭の失敗
 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理は、アダムとエバの堕落によって失われたアダム家庭を蕩減復帰すべき3次目の摂理として、必ず成就しなければなりませんでした。
 そしてそのために、「信仰基台」を復帰するための蕩減条件として神から命ぜられた象徴献祭は、鳩と羊と雌牛の三種の供え物を裂いて燔祭(はんさい)とするという、外的に見てノアの箱舟などに比べればはるかに小さいものでありますが、絶対に失敗は許されないという意味から内的には極めて重いものでした。

 人間は簡単なものであればあるほど、心に隙ができやすいものです。
 アブラハム自身は中心人物として召命されて以来、住み慣れた故郷を離れ、苦しい長旅をし、最後は愛妻サラをパロの手に渡さなければならないなどの幾多の厳しい試練を経ながらも、神から大いなる祝福を受けた立派な信仰者でした。

 しかしこのアブラハムでも、鳩を裂いて献(ささ)げるというあまりにも安易に思える条件故に、これを軽んじて裂くことを忘れてしまったのです。
 この失敗がその後の愛する実子イサクの燔祭につながり、その後子孫が異国の地で400年間苦役を強いられる原因となったことを考えると、これがいかに重大な過失であったか、私たちはこれを歴史的教訓として生かすべきです。

2)イサク献祭
 アブラハムのイサク献祭は、象徴献祭の失敗を蕩減復帰するためのものでした。その献祭対象が、アブラハムが年老いてからやっと生まれた最愛の息子だったので、私たちに信仰の道の厳しさを強烈に印象付ける出来事となったのです。

 これは今日まで、信仰とは、自分の愛するもの、大切なものをあえて献げていく道であり、天情を貫くためには、人情は断ち切らなければならない道であるとして、信仰路程における教訓とされてきました。
 同時にこのことは、神のみ旨の前には、人間的なことは一切否定されなければならないと解釈され、その本意から外れて、誤解される点でもありました。

 ここでは改めてイサク献祭の意味するところを考えてみましょう。
 イサク献祭を通して神が何を願われたのか。『原理講論』(329ページ)には次のようにあります。

 「献祭を中心として、イサクとアブラハムとが共に死んだ立場からよみがえることによって、第一に、アブラハムは、『象徴献祭』の失敗によって侵入したサタンを分立し、失敗以前の立場に蕩減復帰して、その立場から自分の摂理的な使命をイサクに継がせることができ、つぎにイサクにおいては、神のみ旨の前に従順に屈伏することにより、アブラハムからの使命を受け継ぎ、『象徴献祭』をささげるための信仰を立てることができたのである」

 このことから、神は初めからイサクの命を求めて献祭を命じたのではないことが分かります。つまり神が願われたことは、アブラハムの天に対する絶対的信仰であるとともに、アブラハムとイサクがみ旨を中心に完全一体の心情基準を立てることでした。

 実際イサクを神に献げようとしたアブラハムの心は、自らの最も愛する息子なるが故に神の尊いみ旨の前に供えようとしたのであり、イサク自身もすでに物事の道理を分別し得る年齢にあって、燔祭の仕方も知っていた立場から、自分がどのような運命のもとにあるかを悟って、あえて父アブラハムの言われるとおりにしたのです。

 従ってイサク献祭の勝利は、まさに神のみ旨を思う一念から親子が完全に一つとなってもたらした結果なのです。
 このように見れば、信仰生活において、人情を断って天情に生きるとか、自分の大切なものを捨てていくというのは、外的見方であって、むしろ愛する者、尊いものを神に連結させていくことこそ、真なる信仰の道であることが明らかになります。

3)愛勝日の意味
 1983年12月22日、交通事故に巻き込まれて昇華された文興進(ムン・フンヂン)様は、今日にあって、まさにイサクの信仰を貫かれ、この尊い犠牲をあえて天に献げられた真の父母様は、アブラハムの「イサク献祭」を成就されたのです。

 日頃から人類統一を念願され、自分はいつでも神のみ旨のために死ぬ覚悟でいるとして、祝福子女たちにそのように教育していらっしゃった興進様でしたから、興進様の死を目前にした時ですら、真の父母様はその志を天に連結なさるために親としての涙をこらえながら天のみ旨成就を祈られたのです。

 1984年1月1日神の日、「祖国創建」のみ言の中で、次のように語っておられます。

 「現在、興進様は生死の境にあります。しかし先生の心は落着いています。生きるにしろ死ぬにしろ、どちらにしても神のみ旨が成るようにとのみを願います。神の前に最も貴重な供え物を献げることによって全人類の統一がもたらされるでしょう。
 私はお母さん(真のお母様)にこういう話をしたのです。もし興進様が祭物として行ったとしても、統一教会がその恵みは恵みとし、世界は新しい世代に転換することを宣布しました。(興進様は)神様を愛し、先生を非常に愛していたのです。
 そのような心をもって、これから皆さんが生命を覚悟して、天の祭物的なこのような価値を残し、万民の前に恵みを残していこうとするこの祭物的な思想を通して天の前にいくことができます」

 このように、真の父母様と興進様のみ旨を思う心情一体の基台が「愛勝日」をもたらし、死を越えて、真の愛が勝利をもたらす結果となったのです。

 信仰の勝利が、全てを生かして行く道です。還故郷、氏族的メシヤの時代を迎えて、アブラハムの信仰と忠誠を教訓としながら、故郷の地に必ずや勝利の実りを成らせる覚悟で氏族メシヤ活動に取り組んでいきましょう。



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