2023.08.01 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 278
キリスト教と日本(57)
米沢の53人の殉教者たち
ナビゲーター:石丸 志信
これまで日本国内で訪ねたキリシタン由縁の地の記憶をひもときながら、宣教師ザビエルによるキリスト教伝来から昭和に至るおよそ400年の歴史を大まかにたどってみた。
ここでひと息、少しばかり時間を戻して、17世紀の殉教者の話に触れてみようと思う。
17世紀の前半は、江戸幕府の体制固めと並行して、キリシタンの迫害が極めて厳しくなった時代、多くの殉教者を輩出した。
カトリック教会は、1867年に205人の殉教者を福者の位に上げた。これに加えて2007年には188人が福者に認定され、2008年11月24日に長崎で列福式が行われた。日本では7月1日がその記念日と定められている。
188人の中で最も多くの殉教者名が記されているのが、1629年1月12日に殉教した米沢の殉教者たちだ。53人が雪深い冬の米沢の北山原(ほくさんばら)、糠山(ぬかやま)、花沢の3カ所で処刑された。
米沢藩主上杉景勝の重臣、甘糟右衛門が洗礼を受け、彼から武士たちの間にキリシタンの信仰が広がったといわれる。
甘糟一家をはじめ数家族とその従者ら数人の農民が一時に処刑されている。この中には、聖職者、宣教師は一人も含まれておらず、最高齢は80歳で、1歳になる幼児もいた。
米沢の教会は、会津若松から司祭が定期的に巡回してくるだけで、日常は信徒たちの手で共同体が守られてきた。
生活の中に信仰が根付き、数年で相当数のキリシタンが増え広がっていた。キリシタンの信仰に比較的寛容な地域であったとしても、幕府の指針にあえて逆らうことはなかった。
その日、捕らえられた53人は処刑場に引き行かれ、43人が北山原で、7人が糠山で、残り3人が花沢で殉教した。
殉教から300年後の1929年、当時会津若松にいたポーロ神父の記録を基に調査した結果、北山原処刑場跡が確認された。
翌年、有志らの手によって十字架が立てられた。今は、一本の大木から伸びた枝葉が天蓋(てんがい)のように覆っている。
後にドイツの信徒から寄贈されたキリスト像が十字架に取り付けられ、傍らに聖母マリアと聖ヨハネの像が設置された。さらに、十字架像の前には祭壇が備えられている。
初夏の日差しを受けながら、殉教地の十字架の前に立ってみると、400年前に信仰の故に生命をささげた殉教者の心と、藩内で苦楽を共にした者たちを処刑せざるを得なかった執行者たちの痛みまでも感じられてくる。
そっと目を閉じ、彼らの許しと和解を祈るばかりであった。
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