2023.07.09 22:00
ダーウィニズムを超えて 14
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。
統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著
第一章 進化論を超えて
―新創造論の提唱―
(八)愛の起源について
◯進化論
進化論は肉体としての進化を論じているのであって、愛がいかにして生じ、いかにして人間の愛に高まったかについては、ほとんど論じられていない。
◯創造論
神の本質は愛である。神は完全な存在であり、自己充足的な存在であるが、なぜか人間を創造し、愛を注がれた。人間の愛は神から来たものである。
◯新創造論
愛は神から来たものであるが、人間の愛と動物の愛とは次元が異なっている。神が万物を創造されたのは、人間のために愛の環境をつくるためであり、人間同士の愛の懸け橋となるためであり、愛の装飾品となるためであった。したがって人間は愛の主人公であり、万物は愛の舞台に相当するのである。
シドニー・メレン(Sydney L. W. Mellen)の『愛の起源』は、進化論の立場から、愛の起源とその進化を論じた数少ない著作の一つである。シドニー・メレンは、哺乳類に見られる原始的な母と子の絆(きずな)が、さまざまな人間の愛に進化したと、次のように述べている。
自然選択によって哺乳類、特に高等霊長類に発達した愛する能力は、ヒトで原始的な母と子の絆をはるかに超えたものに発展し、さらにいくつかの新しい方向へも拡大していった。男女間の愛や父子の愛、それに同性間の愛などである。だが、生物学的にも文化的にも、ここまでで愛の進化がとまってしまったわけではない(*38)。
特に男女間の愛に関しては、「男女間に見られる愛する性質は、彼らの生存に非常に有利であり、自然選択を通じて豊かに発達していった(*39)」と言う。キリスト教の愛に関しても、「キリスト教の愛もその他の愛も本質的には同じもので、イエスとその弟子たちが説き、何世紀にもわたって西洋に光彩を投じつづけた崇高な愛は、この世のさまざまな愛を総和したものであり、神聖化したものである(*40)」と述べて、やはりその起源は生物学的進化にあると見ている。
このような進化論の見解に対して、統一思想はキリスト教と同様に、神は愛から来たものであると主張する。人間の愛と動物の愛に関していえば、人間の体をモデルとして動物の体が構想されたように、人間の愛をモデルとして、その愛を象徴的に表したのが動物の愛である。それは人間が万物を通じて自己の本性(愛)を相対的に感じて喜ぶように、万物は造られているからである。人間の愛は、家庭を基盤として、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛として実現されるが、それらの愛は、本来、神の愛が分性的に現れるものであった。
神は、形状(体)において、人間の体を目標として、低次な体から次第に高次な体へと段階的に創造されたように、性相(心)においても、人間の愛を目標として、低次な愛から高次な愛へと、次第に愛を高めていくというようにして、動物界を創造されたのである。そして人間アダムとエバによって愛の完成を目指したのであった。しかるに、アダムとエバの堕落によって、愛は未完成に終わった。その結果、被造世界には愛の主人公が登場しえなかった。しかし、愛の舞台である万物世界は主人公のいないまま、今日まで存続してきたのであり、万物は愛の主人公の登場を切に待ち望んでいるのである。
男女の愛、雌雄の愛は性と密接に結びついている。生物学において、種とは、一般的に、お互いに交配して子孫を残すことができる生物の集団と考えられている。したがって、異なる種同士は交雑不可能である。ところが、進化論者は種と種の境界を認めようとしない。リチャード・ドーキンスは人間と類人猿の断絶は本質的なものでないと、次のように述べている。
人類を現生のチンパンジーに結びつけることができるような、一群の中間型が生き残っていたとしたら、どうだというのだ。……この一握りの中間型がもはや存在しないのは単なる巡りあわせにすぎない。……たった一人の生き残りを、見つけるだけでいい。そうなれば、私たちの規範と倫理の厳密な体系は音を立てて崩れ落ちるだろう。……生き残ったヒト属とチンパンジー属のあいだに、たまたま都合よく断絶が生じたとして、それがどうしたというのだ? いずれにせよ、動物の扱いを、それらと交雑できるかできないかに基づいて決めるべきでないというのは確かである(*41)。
統一思想から見れば、種と種の間には「愛の門」があり、異なる種同士は交雑できないようになっている。それは神が生物界を、それぞれの種がユニークな個別性を現すように、種類に従って創造されたためである。したがって、各種の生物はユニークな姿をしていると同時に、ユニークな愛らしさを現すように創造されているのである。そういう意味では、キリスト教の創造論が主張しているように、種は不変性を維持しているのである。ドーキンスが言うような、人間と類人猿の交雑可能性などはありえない。人間と類人猿の交雑などがおきれば、神の創造目的である、人間の男と女による愛の完成は崩壊することになるからである。
*38 シドニー・メレン、伊沢紘生・熊田清子訳『愛の起源』どうぶつ社、1985年、275頁。
*39 同上、162頁。
*40 同上、282頁。
*41 リチャード・ドーキンス『悪魔に仕える牧師』51~52頁。
---
次回は、「進化、創造のプロセス」をお届けします。