愛の知恵袋 176
夫婦は同苦の戦友

(APTF『真の家庭』297号[20237月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

母の傍を離れようとしなかった父

 あれは200433日、外がまだ暗い早朝のことだった。突然電話が鳴り、こんな時刻に何事かと思って受話器を取ると、「ばあちゃん死んだ! すぐに来て!」という父の声が飛び込んできた。

 私の父(91歳)と母(84歳)は大分市内から1時間半ほどかかる国東町に住んでいた。早朝、父が居間に出てみると、やぐらこたつに入って日記を書いている姿勢のままうつぶせになっている母を見つけた。「風邪を引くよ」と声をかけたが返事がない。急いで傍に行ってみると母にはもう意識がなかった。

 驚いた父は救急車を呼び、大分市に暮らしている私と姉に電話をしてきたのだ。私と妻はすぐに支度をして国東の病院に駆け付けた。母は意識不明で人口呼吸器をつけていた。脳内出血で手術ができない状態なので様子を見るしかないという。

 父と姉夫婦と私達は母の意識回復を願って病室でずっと付き添った。夜も待合室で仮眠をとりながら交代で母を見守った。翌日も、その翌日もずっと付き添った。

 病院からは「ここは完全看護ですから家族の付き添いは不要です。容態に変化があれば知らせますから、家に帰っていいんですよ」と言われた。

 しかし、父は頑として動こうとせず、「今夜も待合室で寝る」と言い張った。そんな父を一人置いておくことはできないので、我々も交代で付き添った。

 5日目、もう父は衰弱して声もかすれてしまっていた。このままでは父まで倒れてしまう。姉が「今夜は私達が看るから、お願いだから家に帰って休んで!」と懇願し、やっと父が折れてくれたので、私は車で父を実家に送り、そこで休んだ。

 翌日早朝、姉から「母さんが危ない」と連絡があり、すぐに病院に向かった。父と私が着くとまもなく医師が母の脈を診て、「52分、ご臨終です」と告げた。

 私達の切実な願いもむなしく、遂に母の意識は回復しなかったのだ。

 私は母を抱いて車の助手席に乗せ、ハンドルを握った。実家までの道のりを運転しながら、様々な思いが去来して涙が頬をつたった。

 翌310日、実家で通夜。11日に葬儀場で告別式。母の人柄を示すかのように200名を超える人たちが式場を訪れ、別れを惜しんで下さった。

苦労を共にしてこそ生まれる真の絆

 後に姉が言っていた。「忘れられないことがあるの。付き添っていた時、父さんが母さんの手をさすりながら、『母さんのこの手が…好きだった…』と言ったの」。

 照れ屋の父から初めて聞いた愛情表現らしい言葉だったという。

 私の心に強く残ったのは、母の傍を離れまいとする父の姿、待合室に泊まり込んでまで母の意識回復を待とうとする父の姿だった。

 父はこんなにまで母のことを大事に思っていたのか……。

 今さらながら、母に対する父の思いの深さを思い知らされた。

 少年時代にケガで右足が不自由になり、苦労して紳士服仕立ての技術を身につけた父は、志を抱いて東京都内で洋服店を開業した。母を嫁に迎え「いよいよこれから!」という時に戦局が悪化し、身ごもった母は疎開して昭和19年に姉を生んだ。

 父は最後まで東京に残ったが、空襲が激しくなり、「延焼防止のためこの家も取り壊す。直ちに田舎に疎開せよ」という国の命令。空襲を避けながら33晩かかってやっと故郷に辿り着いた時、持って帰れたのは木のお盆一つだったという。

 日本全体が空襲で焦土と化し、食べる物もなかった時代。全てを失った父はゼロからまた田舎で紳士服店を始めなければならなかった。

 私は昭和22年に生まれ、4歳までのことは記憶にないので、両親が一番苦労した時期のことが分からなかったが、あとで同居していた縁者から聞かされた。

 母はそんな中で姉と私を育てながら、父の仕事を懸命に支えたので店は発展した。

 ただ、私が高校に入る頃には既製服が普及し、父の仕事は減っていた。国立大学に行く予定だった私が高校3年の時、新たな夢を抱いて私立大学に志望を変えた。

 そんな私の夢をかなえるため、母は真冬に1カ月間水行をして決意を固め、調理師の免許を取って食堂を始めた。その店が成長して料亭にまで育ったころ、今度は父が母の仕事を手伝っていた。そんな両親のお蔭で私は大学に行くことができた。

 親とは、なんと有難い、尊い存在であろうか……。

 両親の姿、そして私自身の経験からも思うのだが、“夫婦の絆”というものは、「好きであれば」とか「相性が合えば」とか…そういう事だけで築けるのではなく、苦労を共にして乗り越えた時にこそ生じる“深い絆”というものがある気がする。

 今の日本には戦争はないが人生は波乱万丈だ。家計が破綻して困窮したり、家族が事故や病気になったり、地震・津波・台風・洪水などの災害で一瞬にして窮地に陥ることもある。そんな時こそ、家族は互いに信じ合い、助け合って乗り越えていく“同苦の戦友”にならなければならないのだと思う。

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