愛の勝利者ヤコブ 41

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

ヤボク川の渡しの組み打ち

 さてちょうどいいころ合いと見て、夜半、ヤコブは妻子とつかえめ一行を起こし、身のまわりの品を背負わせてヤボク川の渡しを越えさせた。ヤコブはそのしんがりにあって油断なく周囲を見張っていたが、ふとだれかがその肩をつかまえたような気がした。

 「だれだ」

 と小声でするどく叫んでふり返ったが、何も見えなかった。

 はてといぶかしがるいとまもなく、がっしりとした二本の腕にむずと組みつかれ、危うく投げ倒されそうになった。ヤコブの持ち前の負けん気がむらと湧き起こった。

 何がなんだかさっぱり分からなかったが、とにかくここで負けてはならないと内心から叫び声を聞く思いがした。

 大勢を引き連れての1週間余りの逃避行で疲れ切ってはいたが、先ほどのほんの束の間の仮眠のためか、思いのほか元気いっぱいで、熊のように転じ、相手の首に手を巻いてねじり倒そうとするほど余力にあふれていた。相手も容易に動じはしなかった。

 エサウとの出会いの計画のことなど、一度にその頭からふっとんでしまった。それはそれ、これはこれ──全然予期しないことであっても、その瞬間、瞬間に全力を尽くす。これが、長く厳しい環境の中で何度も死線を通過してきたヤコブに、しっかりと身についた心構えであった。

 負ければそのあとはない。どんなにすばらしい計画であろうと、突然襲いかかってきた「瞬間」を取り逃がせば、再びそれを取り戻すことはできない。よしそれがサタンからの挑戦であろうと、神の試練であろうと……。

 この勝負は長引きそうだ。そうなれば、自分の計画はめちゃくちゃになってしまうが、そんなものは所詮(しょせん)、人間の浅知恵。神は一体自分のどこを見ておられるのか知れたものではない。

 供え物のはと一羽を裂いてささげなかっただけで最愛のひとり子イサクを献祭しなくてはならなかった話など、父イサクや母リベカから日ごろ何度も語って聞かせられた教訓や自分自身のさまざまな体験などが、目まぐるしく湧いては消えていく……。

 かまうものか。何がどうなろうとそれは神のおぼし召し。今、自分のなすべきことは渾身(こんしん)の力を振りしぼって勝つ、勝つ、勝つ……ただそれだけだ。

 小一時間もそうしてもみ合っているうちに、目に見えない相手は突如ヤコブのももを強くけり、そのはずみでそのつがいの骨が外れた。激痛が全身を貫き、思わず前に腰を着きそうなのを危うくこらえた。全身から油汗が流れた。死んだって倒れるものか。その意地だけが辛うじて、その痛み切った体を支えていた。

 その体はもはや自分のもののようではなく、噴出して冷えて固まった溶岩のように緊張していた。もし鉄の棒でひと打ちしたら、一瞬に全身が細かい粉末となって砕け散っていただろう。

 「うーむ」

 とただただあきれてもらすため息が聞こえた。ふと見ると、東の山が白みかけている。

 「もう夜が明けます。わたしはもうここにはいられない。帰らなければなりません」

 ヤコブは最後の力を振りしぼり、両腕で相手の背中にしっかりとしがみつきながら夢中で叫んだ。

 「帰りたいのなら、たとえ全身の骨が砕けても、ねらった獲物を手に握るまでは決してくじけない男、神のみ旨を託しうるものだという証明を、祝福を残していってください。さもなければ死んでも離しません」

 「お前の名前は何と言ったかな?」

 「ヤコブです」

 「よかろう。あなたはきょう限りヤコブとは言わず、イスラエルと名乗るがよかろう。お前は両親から授かった名のとおり、『好運』のかかとをつかんで絶対に離さず(創世記2526)、とうとう人間とばかりでなく、神とまで力を争って勝ったのだからな」

 その声には、今までの寸分の容赦もしない厳しさとは打って変わり、こみあげてくる喜びを抑え切れないといった感じの、晴れ晴れとした優しい響きがこもっていた。

 「そういうあなたはどなた様で?」

 「答えるまでもなかろう」

 そう言うと、一瞬、ほのかにしのび寄ってきた大気の輝きの中に、額に深いしわが刻まれ、髪に白いものが入りまじった温顔が浮かびあがった。

 そしてかつてアブラハムに、イサクに、また砂漠の中を一人歩むヤコブに対しても与えられた祝福、「あなたの子孫が天の星のように、地のちりのように生み殖える。その子孫にこの地をそっくり与えよう」という祝福が、手短に力強く告知された。

 聞き返すいとまも与えず、今までずっしりとヤコブの体にまとわりついていた重みがその腕をすり抜けて、天へと溶け去ってしまっていた。

 山の端から射るようにさし込む最初の陽の輝きの中に、白衣のようなもののひるがえるのがちらりと見えただけ……。

 「して見るとあれは天使だったのだろうか?」

 自問自答をしているうちにヤコブははっと、背筋が寒くなるのを覚えた。

 「確か『イスラエル』と名乗れと言われたな。『イスラ』とは『闘う者』の意、『エル』とは『神』のことである。とすれば今まで自分が必死に闘っていたのは……」

 確かにそれは、問うまでもないほど明白なことであった。

 「よく目がつぶれなかったものよ」

 とつぶやきながら、ヤコブはその場所をペニエル(神の顔、創世記3230)と名づけた。

 「わたしは顔と顔をあわせるほど間近に神を見た。なんという畏(おそ)れ多いことか。しかも見よ。わたしはなお生きており、祝福の言葉さえもはっきりとこの耳で聞き、今この岩の上に立っている」

 「立っている」と言って足を突っ張った時、ヤコブは今まで興奮のあまり感じなくなっていたもものつがいが激しくうずき、歯を食いしばった。それは激痛ではあったが、それだけにまごう方のない勝利と祝福の印であり、彼の心は言い知れない喜びに満たされていた。

 その頬(ほお)を、今やはっきりと顔をのぞかせた朝の日が赤く照らし出した。ヤコブはびっこを引きながら、それでも一行に一瞬でもはやく追いつこうと、ヤボク川の渡しを夢中で渡っていった。

 このヤコブ、いやイスラエルの子孫は今日に至るまで、どんな生き物にせよ、そのもものつがいの上にある腰の筋を食べない。それは、神ご自身がその上を打たれた神聖な場所だからである。

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 次回は、「エサウとの再会」をお届けします。