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愛の勝利者ヤコブ 40

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

前門の虎(とら)

 このようにしてヤコブを追ってきた後門の狼(おおかみ)──ラバン一行は、ひともめしたものの、神の告示に恐れをなしておとなしく祝福を与えて退散した。しかし、故郷カナンにはもっと恐ろしい家督権を奪われた兄エサウが、手ぐすね引いてヤコブの帰還を待ち受けていた。

 それにどう対処しようかと思案に暮れるヤコブのもとに、大勢の天使たちが来て、まわりを取り囲んで守ろうとしているのがヤコブの霊眼に映った。ヤコブは大いに力づけられた。

 「これは神の陣営です」(創世記322

 と神の加護に深く感謝し、ヤコブはそこをマハナイム(二つの陣営)と名づけた。このマハナイムはのちにサウル王の死後、その子イシボセテがここまで退却して、2年間王として世を治めたのちダビデの軍門にくだった地である(サムエル記下2810)。

 またダビデがその三男で美貌をもって聞こえたアブサロムの反逆に遭い、いったん退却して軍を立て直したのもこのマハナイムである(列王紀上28)。すぐあとに出てくるヤボク川の渡しのすぐ北である。

 この時から「神の陣営」と、神に逆らう「サタンの陣営」との二つに世界を分けて見る思想、世界観があったということは興味ある事実である。

 ヤコブはこうした援軍に勇気づけられはしたものの、これまでの体験から、自分の道は自分で切り開いていかなければならないということをよく心得ていた。努力と忍耐と知恵の限りを尽くし、もうこれ以上は不可能というぎりぎりのところまで力を振りしぼるのでなければ神も力を貸さない。悪魔も神に向かって「ヤコブだけを一方的に助けるのは不公平だ。それだけの助力が得られるのなら、自分も同じくらいのことができるはずだ」とざん訴(*14)し、神とヤコブに心服しはしないのである。

 そこでヤコブは、死海の西にある郷里、カナンのヘブロンから離れて、死海の南、エドム(*15)の山野を荒々しい騎馬隊を引き連れて日夜駆け巡っているといううわさのエサウのもとに、カナンの地に入るに先立って使者を遣わし、こう言わせることにした。

 「あなたのしもべヤコブは、長らく伯父ラバンのもとで厄介となっておりましたが、そこで多くの牛やろば、羊、男女の奴隷などを得てまいりました。そのことをわが主エサウ様にご報告し、できることでしたら寛大なお取り扱いを願いたく、こうして使者を遣わした次第でございます」と。

 役目を果たして帰ってきた使者の返事はこうであった。

 「兄エサウ様の所へ参りましたら、『良かろう、たっぷりと心ゆくまで歓待してやろう』とおっしゃられて、400人にも及ぶ騎馬隊に一斉に歓呼の声をあげさせられました」

 「その時の兄の表情はどうだったか?」

 「これから大がかりな象か猪(いのしし)狩りでもするかのように武者ぶるいをされ、かっと大きく口を開かれ、そこから炎が吹きあげてくるような有様で……いや、見るも恐ろしく、早々に引きあげてまいったような次第で」

 その報告からヤコブには、20年たってもなおエサウの怒りは鎮まるどころかますます激しく燃えさかり、その熱気で肌が焼けただれそうにすらなるのが感じ取られた。

 単身、ハランまで大砂漠を横断するまでのヤコブは、天幕とその近辺で家畜や天候、草花のつくりや育て方などを研究し、母を助けて料理を作り、帳簿をつけたりすることを好むおとなしい青年であった。

 しかし、砂漠でいくたびも死線を越え、20年を奴隷のような苦役に耐え続けてきた今のヤコブは筋骨隆々としてたくましく、抜群の戦略家ともなっていた。ヤコブと苦労を共にした牧童たちも、ヤコブの命令一下、一糸も乱れずに敏速に動く。ただ力が強いだけで能なしの兄と戦っても、おめおめ一方的にたたきのめされるとは思わなかった(創世記281415329参照)。

 しかし、肝心の武器もなく、戦闘訓練を受けてもいない。足手まといの家畜を引き連れて、果たして400人の騎馬の精兵を支え切ることができるだろうか……。

 その窮地にあってヤコブは、血涙を流しつつ神に祈りに、祈った。

 「祖父アブラハムの神、父イサクの神よ。あなたは『お前の親族の所へ行け。わたしはお前を片時も見捨てず、お前とその子孫とによってすべての地の諸族が恵みを受ける』(創世記329参照)と約束されたではありませんか。

 わたしは仰せのとおりただ杖だけを持ってヨルダン川を渡りましたが、今は恵みを受けて、最愛の妻子と共にこれほど多くの家畜を得ることができました。どうか、兄エサウと争わなければならないような悲しい運命とならないよう、わたしたちをお救いください」

 ヤコブのこの切実な祈りに対して、神はなぜか沈黙のまま、具体的な答えはいっさい与えられなかった。

 「ヤコブよ。それはお前が自分で考えるべきことだ。それを考える能力も訓練もわたしはすでに十分にお前に与えた。その難問を自分の力で解いてこそ、わたしはお前を誇りにすることができ、お前の胸にも心からのあふれるばかりの喜びが湧いてくることであろう」

 ヤコブはなるほどと思った。自分はすでに20年にわたって徹底的な訓練を受けてきた。強欲で狡猾(こうかつ)なラバン、嫉妬(しっと)深く意地悪なその子供たち、よそ者としていつも自分に冷ややかだったハランの地の人々、昼は暑く夜は寒い厳しい自然、二人の妻をめとるはめとなって争いの絶え間のなかった家庭──相思相愛のラケルを除いてどこにも心身を休める場所のない酷薄な環境、それらはまさしくこの世の地獄であった。エサウから家督権を奪い取った報いとはいえ、その運命のあまりの酷薄さに、かつては天を恨めしくさえ思ったほどの自分であった。

 しかし、考えてみればその苦労によって、自分はこれまでに大きく成長することができたのだ。神が自分を一人前の頼もしい男に育てあげてくれた。

 してみれば、いつまでも子供のように神にすがってばかりいてはならない。培われた知恵と勇気と粘り強さにより、創造主ご自身の手で家督権を与えられ、身近に仕えさせていただいているという誇りと責任をもって、まず自分の持てる力の限界までとことん考え抜き、行動し、戦い抜いていかなければならない。ヤコブはそう悟った。

 しかし一体どうしたら、絶体絶命のこの苦境を乗り越えていけよう。

 まずその胸にひらめいたのは、家畜の群れを二つに分けてそれぞれ別の道を行かせるということであった。これなら一組が襲われても、もう一組のほうは安全のはず。さらに、より抜きの家畜を兄に献上することにして……。

 そうだ。それを先頭に立てて牧童たちに引かせ、そのあとからわれわれ一族がついて行くということにしよう。こうすれば、問答無用で相手にしゃべるいとまも与えずいきなり斬(き)りつけてくる短気なエサウにでも、再考のゆとりを持たせることができるだろうとヤコブは思った。

 そこで彼はその夜、マハナイムに泊まり、手持ちの家畜の中から雌やぎ200頭と雄やぎ20頭、雌羊200頭と雄羊20頭、乳らくだ30頭とその子たち、雌牛40頭と雄牛10頭、雌ろば20頭と雄ろば10頭、という五つの隊に分け、それぞれを牧童たちに引かせ、その先頭の者に命じた。

 「もし兄エサウの一行に出会って聞かれたら、『これはあなたのしもべヤコブのもので、わが主エサウ様への贈り物でございます。ヤコブもわたしたち一行の後ろにおり、お目どおりがかなえば、これ以上の喜びはないと申しておりました』と、こう言え」

 その役にあたる5人に何度も復唱をさせて、万が一にもエサウに疑念や怒りを呼び起こさないようにと細心の注意を払った。

 まだ空が白み始める前、牧童や家畜の姿がはっきりとは見えず、かといって夜襲と見間違えられるほど暗くもないころ、群れの一番先頭がエサウ一行と出会い、ちょうど朝日が昇り始めたころ、自分たち家族一行がヤコブと相まみえるのが一番タイミングがよい。

 そう計算したヤコブは、その計算どおりに事が運ぶよう、日が暮れて間もなく先発隊に、野営していたマハナイムを出発して、すぐ前のヨルダン川の東の支流、ギレアデとアンモンの境界の谷間を流れくだるヤボク川の渡しを渡らせ、順次、15分ぐらいの間をおいて第二隊、第三隊と、第五隊まで渡る手はずを整えた。

 その行く手にエサウ一行が手ぐすね引いて待ち構えているはずだった。そうしておいてヤコブは天幕の中に入り、しばし悠々と仮眠を取った。

 やる時には全力を投入し、念には念を入れるが、あと考えても仕方のないことは天に任せて気を病まないのがヤコブの気性だった。

*注:
14)聖書によれば、悪魔(サタン)は堕落した天使(黙示録129など)であり、「統一原理」の解釈によれば、その堕落の動機は、神の子として創造された人間に対する愛の減少感(嫉妬/『原理講論』106120ページ参照)である。それゆえ、神が人間に対して一方的に助力すれば、不公平だとざん訴するため、それ相当の苦労(蕩減〈とうげん〉)の条件なしに助力は与えられない(ヨブ記など参照)。
15)エドムとは「赤」の意味。エサウは狩猟して空腹でたまらなくなった時、ヤコブが煮ていた赤いレンズ豆のあつものとパンとを引き換えに、長子の家督権をヤコブに売り渡した(創世記252933参照)ことから、このあだ名がつき、エサウ一族の住んだ土地もこのように呼ばれるようになった。元来はセイルと呼ばれていた一帯である。

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 次回は、「ヤボク川の渡しの組み打ち」をお届けします。