愛の勝利者ヤコブ 39
契約の石塚

愛の勝利者ヤコブ 39

　アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信（予定）でお届けします。
　どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。（一部、編集部が加筆・修正）

野村 健二・著

契約の石塚

　ラバンは翌日の夕方、ヤコブの一行が山の中腹に天幕を張り、家畜を幾手にも分けて谷間で水を飲ませているのに出会った。ヤコブはそちらを振り向いたが、当然来るべきものが来たという調子で平然としており、微笑みを浮かべ、握手さえしかねないくらいに落ち着いていた。まわりには12人の子供たちが思い思いに大声をあげて走り回っており、レアとラケルはそれを止めるでもなく、

　「ほおら、おじいちゃんよ。さようならしないで行くのはいやだと言ってたけれど、おじいちゃんのほうからわざわざみんなの顔を見たいとやっていらしてよ。みんな集まってきてごあいさつしなさい」

　ラケルがそう言うと、子供たちは口々にラバン一行に大声で「こんばんは」と言うなり、その首にかじりついたり、うしろから跳びついて肩によじ登ろうとしたりした。

　ラバンたちは毒気を抜かれ、文句を言うきっかけもつかめないまま、間の悪そうにまだ張り終わっていない天幕を張るのを手伝わせられるはめとなった。

　夕食をすませ一息入れてから、ラバンはヤコブを外に呼び出し、手ごろな石が向かい合わせに並んでいる所にまで行って、じっくりと腰を下ろしながら言った。

　「ヤコブよ、お前も今度はやり過ぎたとは思わぬかな」

　夢枕に神が立たれ、死ぬほど冷や汗をかいたあとなので、さすがのラバンも慎重に言葉を選びながら言った。

　「わたしの娘たちをいくさのとりこか何ぞのように、わたしに一言の断りもなくこっそり逃げるとはな。わたしはな……」

　と、そら涙を流しながら、

　「かわいい娘や20年も一緒に働いて苦労したお前と、目に入れても痛くない孫たちのことじゃもの、親類縁者や近所の世話になった人々に皆来てもらって、一晩、夜っぴて飲んで歌って語りあかして、それから送り出そうと思っていたのに…この子たちはわしにとってはかわいい孫じゃ。その孫や娘に口づけすることさえお前は許さなかった」

　しらじらしいことを……とヤコブは思った。もし自分たちがハランを脱走しなければ、ラバンは族長としての権限を振るって、力ずくでもハランの地に縛りつけ続けようとしただろうに。しかしここはもうハランではない。ラバンとて何ほどのことができよう。

　「この歳になってまで、こんな思いをさせられるとはのう」

　そう言うとラバンは感情が激してきて、いつしか演技がほんものの涙に変わってきた。しかしヤコブの心は鋼鉄のように固く動じなかった。

　「お断りしておきますが、わたしは妻や子の首になわをつけて引っ張ってきたのではありません。妻たちは自分から進んで、いやむしろわたしにあなたの所から離れるように催促しさえしたのです」

　ラバンは目を剥（む）き、レアとラケルを呼び出して聞き出した。

　「それはまことか？」

　ラケルは平然としてこう言った。

　「また祖父ベトエル様の遺言状が出てきて、ラバンの娘とそれに与えたすべてのものはたとえ他家に嫁いでもハランの地から持ち出すことは許さぬ、とでも書いてあったら厄介なことになりましょうからね」

　「ヤコブがヤコブなら、娘も娘だ。女とはそういう薄情なものかの。よいか。わしはここがハランだろうと、ギレアデであろうと、お前たちをいつでも八つ裂きにできるだけの私兵を連れてここに来ておるのじゃぞ……。

　しかしな、昨夜夢の中にお前たちの神様が現れて相当きついことを言われた。お前にヤコブを裁く資格があるかとな。まあそう言われれば、確かにわしもお前たちにとって本当にいいおやじだったとは言えぬ。だから逃げた一件については水に流そう。しかし、わしが命よりも大切にしている神様まで、どうして奪っていったのか。そのわけを聞かしてもらおう」

　ヤコブは、ラバンの最後の言葉はどういうことなのか、その意味がよく分からなかった。なぜなら、ラケルは自分一人の責任でテラピムを奪ってき、そのことはヤコブにも秘密にしたままだったからである。ヤコブは分からないままに、こう答えた。

　「わたしがハランを脱走したのは、自分の妻子まで最後には奪われはしまいかと恐れたためです。今まであなたがわたしになさったことを見れば、そこまで心配するのも無理とはおっしゃいますまい。

　しかし、あなたの神様のことなどわたしは全然存じません。もしお疑いなら、わたしたち一族と所有物をどうぞいくらでもお探しください。あなたの神様を盗むようなふらち者がいたら、わたしが許しておきません、その場で刺し殺しましょう」

　「よし、それでは調べさせてもらおう」

　ラバンとその一行は、一番あやしいとにらんでいるヤコブの天幕から始めて、レア、二人のはしため、最後にラケルの天幕に入り、さらに牧童たちの天幕の隅から隅までひっくり返して調べさせた。ラケルは震えながら、その間中、テラピムを隠したらくだの鞍（くら）の上に座り続けていた。

　ラバンはどなった。

　「らくだの上から降りてこい」

　ラケルは必死になって言った。

　「らくだの上に乗っておりましたら、女の常のことがあって今は立ちあがることができません。お許しください」

　ラバンは仕方がないので、そのままらくだの体中、ラケルの衣服にまで手を入れて探し回ったが、どうしてもテラピムを見つけることができなかった。

　ヤコブは怒り心頭に達しながら、今度は逆にラバンを責めあげた。

　「あなたの神様は見つかりましたか？ ……これでわたしが完全に潔白であることを、あなたもお認めになるでしょう。あなたは大体、わたしに何の罪があるとお考えでわたしのあとを追っかけて来られたのです？

　わたしは20年あなたと一緒におりましたが、その間一度でも家畜に流産させたことがありますか。あなたの群れの家畜を盗んで食べたことがありますか。野獣がわたしの家畜をかみ裂いた時も自分の損として片付けて、あなたには迷惑をかけませんでした。

　あなたはどうでしたか。盗まれたものの弁償は全部わたしに押しつけられ、粗末な天幕しか与えられず、昼は暑さ、夜は寒さに悩まされ、ろくろく安眠することもできませんでした。そんな中でわたしは、あなたの二人の娘を頂くために14年、妻子を養うだけの家畜を得るためにさらに6年、実に20年もお仕えしたのですよ。

　その間、あなたはわたしの報酬を10回もだまして削り取られました。わたしの父なる神がおられなかったら、故郷に帰る時には、ここに来た時と同じく全くの無一物で追い出されたことでしょう。わたしの神があなたの夢の中に現れて責められたのは、当然のことだと思われませんか」

　ラバンは一言もなかった。長い沈黙の末、やっと口を開いた。

　「あなたの妻はわたしの娘、あなたの子はわたしの孫。憎いわけはない。娘や孫のためにわたしにできることがあったら、これまでの罪滅ぼしにどんなことでもしよう」

　ヤコブはただ黙って、細長い形の良い石を立てて土に埋め、それを柱にした。さらに一族の者に石をたくさん集めさせて石塚を造った。

　「よろしいですか。わたしたちは子々孫々、この石塚から北であなたがたに危害を加えないことを神に誓います。あなたがたもこの石塚から南の所では、わたしたちに襲いかからないことを誓ってくださいますね」

　ラバンはうなずいた。

　「さあそれではこの柱が、今わたしたちがこのように誓い合ったことの証（あかし）です。わたしの祖父、アブラハムの神であり、またあなたの祖父、ナホルの真の神でもあられる創造主ヤハウェが、今わたしたちの間で取り交わされた契約に従って、正しくわたしたちを裁いてくださいますように」

　ラバンも言った。

　「われわれが互いに別れたのちも、主ヤハウェがわたしたちとあなたがたを共に守ってくださいますように。またあなたがわたしの娘を虐待したり、わたしの娘のほかに妻をめとったりすることがないよう、その証人ともなってくださいますように」（創世記31・50参照）。

　この石塚をラバンはエガル・サハドタ（「証の石塚」という意味のアラム語）、ヤコブはガルエド（同じ意味のヘブライ語）と名づけた。こうした和解が成立したことを感謝して、ヤコブは山で犠牲をささげ、一緒に食事をした。

　その明くる朝、ラバンは早く起き、孫と娘たちに口づけし、祝福を与えてハランの地へと帰っていった。

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　次回は、「前門の虎」をお届けします。