2023.07.10 12:00
愛の勝利者ヤコブ 42
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
エサウとの再会
すべてはヤコブの当初の計画とは全く違った形で進んでいったが、しかし案ずることは何もなかった。
ヤコブの家族は、ヤボク川の渡しを渡り切ったあたりで、心配気に、しかしヤコブに限ってどんな変事に出くわそうとそれをすり抜けられないわけがないと固く信じつつ、じっとヤコブを待ち続けているのに出会った。
「よう」
と言葉をかけるいとまもなく、向こうから一群の騎馬隊が砂塵(さじん)をあげて疾風のように目前に迫ってくるのが見えた。その先頭を進むたくましい毛むくじゃらの大男。それは、まごう方もないエサウである。こちらから出向こうとしていた「運命」が、向こうの方から疾走してきたのだ。
ヤコブはとっさに女たちに、
「めいめい自分の子供たちをかかえて伏せ」
と小声で叱咤(しった)した。
「まずジルパとビルハ、前へ。そのあとにレア、ラケルとヨセフは一番後ろに来い」
その声は、今までのヤコブとは打って変わり、あたかも神の霊が乗り移ったかのように威厳に満ち満ちたものであった。
このように、妻子とつかえめたちを大地にひれ伏させると、ヤコブはやおらしずしずと彼らの前に進み出て、七たび身を地にかがめ、あたかも神を拝するようにエサウを拝した。
と……不思議なことが起こった。
ヤコブ一行と出会うまで、エサウの胸は二度にわたって自分から家督を受け継ぐ神の祝福を奪い去ったヤコブに対する怒りに燃えたぎっていた。その怒りは、無念を晴らそうにも、その当の相手がいない口惜しさが20年にわたって積もりに積もり、ヤコブを八つ裂きにし、その骨を粉になるまで打ち砕いても、なお晴れないほどに根深いものとなっていた。
それが「エサウ様への贈り物」だと、次から次へ後方がかすんで見えるほどの家畜の大群を、やぎ、羊、らくだ、牛、ろばと五種類も見せつけられてはただあ然。とりわけ一言ごとに「わが主エサウ様」と奉られたのでは、文句のつけようもなく、闘志が空気の抜けたタイヤのように萎(な)えていくのをどうすることもできなかった。
「くそ、贈り物や、『わが主』などと歯の浮くようなことを言われても、だまされはしないぞ」と息まいてはみても、その怒りはしびれるような甘さのうちに、いや応もなく霧散していった。
エサウは勇を奮い起こして、その後方にいるヤコブの面前にまで押しかけていき直接ひざ詰めで問責するつもりで、ここまで騎馬隊を駆り立ててきた。だが今、当のヤコブはエサウの前にひれ伏したまま、息をこらしてじっと動かずにいる。体臭さえも漂ってこないほど、無になり切っている。
わずかに残っていた憎悪さえも、煙のように消えていく。残るものは、20年離ればなれになっていた、弟よりも身近な双生児(ふたご)の片割れ、自分の分身のように懐かしいヤコブへの愛惜(あいせき)の情ばかりであった。
全身が情の固まりといってもよいほど、直情径行のエサウは、これまでの行きがかりなど一瞬にしてどこかに吹き飛んでしまっていた。考えるより先に足が馬上から離れ、宙を舞うようにしてヤコブを抱きかかえていた。
その激情は言葉にさえならず、ヤコブの首を抱えると、その頬(ほお)といわずうなじといわず、口づけの雨を降らせ、ただ泣きに泣いた。
ヤコブもいつもの折り目正しい分別など消し飛んでしまい、大声で三歳の童児のように泣きじゃくるだけであった。理屈なしにただ一つの鳴咽(おえつ)と化した涙の中に、もう一つのもっとはるかに巨大で多感な大いなる者の涙も入り交じっていた。
そのまま、どれだけの時が流れたことだろう。エサウは初めて目を上げ、ヤコブのあとに十数人もの人影がじっと祈りつつひれ伏しているのに気がついた。
「お前の後ろにいるのは一体だれだ」
「神がしもべヤコブに恵みを垂れ、授けてくださった子供たちです」
そう答えると、まずジルパとビルハが、それぞれ自分たちがヤコブによって生んだガドとアセル、ダンとナフタリを両わきに抱えるようにしてエサウに近づき、深々とお辞儀をした。続いて6人の男の子──ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、さらに一人娘デナを引き連れて、レアがエサウの前に寄ってこうべを垂れた。
最後にたった一人の子、ヨセフだけを授かったラケル(カナンの地に入ってから彼女はもう一人ベニヤミンを授かって死ぬが、この時にはまだ生まれていない)がエサウにうやうやしく拝礼した。
「よくぞ、そろいもそろって良いお子たちを神から授けられましたな」
エサウはわれ知らず上機嫌となり、子供たちをほめ称えた。
「家畜も皆まるまると肥えて元気そうだ。良かったな。ところでお前の牧童は、これは全部わたしへの贈り物だと言っておったが、どういうわけか」
「わが主エサウ様に献上し、そのお恵みを得たいと思いまして」
「そう仰々(ぎょうぎょう)しく主と呼ぶのはやめてもらいたい。昔どおりに兄さんと言うだけで十分じゃ。それにそんな贈り物など受けずとも、わたしもたくさんの家畜を持っている」
「しかしそれではわたしの気持ちがすみません。あなたがこれまでのいきさつを少しもお気になさらず、ただ喜んでわたしを迎えてくださるのを見て、神のお顔を目の当たりにするような気がするのです」
それは決して口先だけのことではなく、20年のあいだ一瞬も気の休まる時がなく、あらゆる辛酸をなめたヤコブにとっては実感そのものであった。
あまりにヤコブが勧めるのでエサウも根負けして、ヤコブの好意を受けることにした。すると不思議にも、ただ家畜を受け取ったということだけではない、なにかしら天にも昇るような聖なる、心からの喜びがひたひたとその胸にしみ込んでくるのを覚えた。
今までぽっかりとあいたままになっていた心の空洞がそれで完全に隙間なく満たされたような感じで、見るもの聞くものすべてが輝かしく、自分までが内からの光によってまぶしいばかりに照らし出されるような気がした。
ヤボク川の渡しでの大いなる者のヤコブへの祝福は、かくして現実のものとして成就されたのである。
かつてアダムとエバの二人の子──カインとアベルとが、ちょうど今のエサウとヤコブのように、弟アベルの方だけが祝福され、兄カインは神から顧みられなかった。それでカインは憤ってアベルを野に連れ出し、憎しみを込めて打ち殺す(創世記4・3〜8)という悲劇が生まれた。
ヤコブはわれ知らずこのアベルと同じ立場に立つように神から導かれ、この実に難しい状況を、血涙と汗にまみれた苦労の道と心の清さから生まれた知恵、神から受けた恵みを自分一人のものとせず、兄に惜しみなく譲り尽くす愛情とによって、ついに勝利した。
神がヤコブを歴史上初めての完全な愛の勝利者──イスラエルとして祝福し、その子孫を神の救いの摂理をあずかる働き人となる民族たらしめるよう祝福された理由は、実にここにあるのである。
この困難な道を全く罪なき人として、世界的な規模で歩み、「み意(こころ)が天に行われるとおり」、この地全体を神の愛と喜びに満ち満ちた世界に再創造しようとされたのがイエス様であり、また再臨のキリストの歩まれる苦難の路程でもある。
「家庭」という小さな社会の限界内でではあるが、このキリストの歩まれる道を象徴的に先取りして勝利し、愛の勝利の完全なひな型を初めてつくった者こそ、このヤコブである。そういう観点から見るのでなければ、ヤコブという人物とそのたどった足跡の意味をはっきりと理解することは、永遠に不可能だといわなければならない。
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次回は、「おわりに」をお届けします。