2023.06.29 12:00
制作の舞台裏から 17
生涯忘れ得ない撮影体験
「ヘブンリー・ディスコ大会」
私には、生涯忘れ得ない感動の撮影体験がある。
それは、1985年7月20日、後楽園スタジアム(現・東京ドーム)で開催された「世界大学生ディスコ大会」に撮影スタッフとして臨んだ時のことであった。
当時、入社して間もなかった私にとって、この大会はカメラアシスタントとしての実質的なデビュー戦となった。
会場には「ヘブンリー・ディスコ'85」の横断幕が掲げられ、世界54カ国から1万2000人の学生らが集った。
大会のテーマは、「自分だけでなく周囲の人も喜ばせるディスコを通して、民族・国家を乗り越えて世界の若者が一つになる」というもの。
はじめに久保木修己・世界原理研究会顧問(当時)が、「きょう、この後楽園で1万2000人の大会をやろうと計画したのは、このおじさんです!」とあいさつし会場を湧かせた。
そして、軽快なディスコのメロディーが会場に流れると、後楽園スタジアムを埋め尽くす若者たちが一斉にディスコダンスを踊りだした。
その光景たるや何とも圧巻であった。また、ディスコ・コンテンストも行われ、優勝すると賞品の乗用車ミラージュがもらえるというので、参加者の踊りにも熱が入り、それぞれが個性的なダンスを披露した。
ところで、このような大会の撮影の場合は、複数のビデオカメラの映像をモニターで見ながら、最もふさわしい映像を捉えているカメラに切り替える「スイッチング」という手法で映像を収録していく。
カメラアシスタントの仕事は、カメラマンの後ろに付き、カメラマンの動きに合わせビデオカメラから出ているケーブルを絡ませずにさばく役割を担う。
ちなみにビデオカメラとスイッチングの機器は、長い1本のケーブルでつながっている。
私がアシスタントとして付いたのは、社内筆頭のカメラマンで、当日はステージやフィールドなど、最も広いエリアを動きながら撮影するハンディカメラの役割を担っていた。
ハンディカメラといっても、当時の業務用ビデオカメラはサイズも大きく、肩に担ぐとずっしりと、その重量も十分にあった。
カメラマンであり上司でもあったこのかたからは直前に、「きょうは激しく動くと思うので、しっかりと私に付いてきてね」と言われ、身震いする思いで「どうぞ、任せてください」とお答えした。
その宣言のとおり、本番が始まるとステージに登ったり、皆が踊っているフィールドに降りて分け入ったりと、移動の頻度も多く、その動きも早かった。
カメラマンの動きをその都度、予想しながらケーブルを巻いたり引き出したりしたが、付いていくので精いっぱいとなった。
大会も中盤となり、日が落ち始めた頃、突然、激しい雷雨に襲われた。あっという間に、会場全体が水たまりのようになった。
次の瞬間、落雷でステージの照明が落ち、場内が真っ暗に…。
あわや“中止か”と思われたが、音響が復活し軽快なリズムが場内に鳴り響いた。
雨は止む様子もなく激しく降っていたが、参加者たちはこのハプニングにも屈せず、かえって興奮して踊り続けた。私たちは全身ずぶぬれになりながらも、その様子をハンディカメラで捉えた。
ステージの照明は依然として落ちたままだったので、唯一の明かりは、わが映像チームの手持ちの照明のみとなった。
激しく降り付ける雨の中で踊る若者たちの体からは、やがて湯気が立ち込め、雨や雷の音もその熱気にかき消されるかのように遠くなっていった。
私は、1976年6月1日、悪天候の中で開催された米国・ニューヨークのヤンキースタジアムでの大会に思いをはせた。
真のお父様(文鮮明〈ムン・ソンミョン〉総裁)が「神のアメリカに対する希望」というテーマで講演された時の事をほうふつとさせる出来事だと感じた。
そしていよいよダンスの優勝者の発表となり、大学の聴講生の女性が、見事「ミラージュ」を獲得した。
最後に文孝進(ムン・ヒョウヂン)世界原理研究会会長(当時)が会場に駆け付け、「ヒョウヂンニム」コールが湧く中で、「この大会のように他者を喜ばせるというその精神によって、世界が一つになっていくでしょう」と熱くメッセージを語られた。
後日、社内で反省会があり、カメラマンの上司からは、「あなたはアシスタントとしてよく私に付いてきたね。大したものだ」とお褒めの言葉を頂いた。
今でもその時の言葉は、感動の撮影体験と共に、私の心の中に“生涯忘れ得ない宝物”となっている。
参照:『中和新聞』1985年8月1日号
(T)