2023.06.06 17:00
シリーズ・「宗教」を読み解く 270
キリスト教と日本㊾
新島襄、京都に同志社英学校を開校する
ナビゲーター:石丸 志信
少弁務使として米国に駐在していた森有礼(もり・ありのり)は、アンドーヴァー神学校に在学していた新島襄と会い、留学免許状と旅券を取得できるよう取り計らった。
新島の国禁を犯して日本を脱出した罪は抹消され、祖国に帰る道が開かれた。森の後押しで岩倉使節団の随員に抜てきされた新島は、米国内とヨーロッパを歴訪する機会を得た。また文部理事官・田中不二麿(たなか・ふじまろ)に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
この時、日本では浦上四番崩れによって捕えられたキリシタンが地方に配流されていた。
岩倉使節団は、弾圧政策に対する欧米からの厳しい非難に直面することになり、1873年、キリシタン禁制の高札を取り降ろした。このニュースを耳にした新島は、日本宣教への意欲を高めるのだった。
1874年、アンドーヴァー神学校を卒業した新島は、日本への出発前にアメリカン・ボードの年次総会に招かれ参加している。そこで、別れのあいさつに立った。
「日本でキリスト教伝道に努めるのはもちろんのこと、アーモスト大学のようなキリスト教主義私立大学を設立する」
新島はこれまで温めてきた夢を熱烈に語り、設立基金のカンパを訴えた。無謀な行動ではあったが、彼の熱意は聴衆の心を打ち、5000ドルが集まった。
彼はこれを「核」として日本に戻りキリスト教主義大学の設立に向け力を注ぐことになる。
日本ではキリスト教主義大学の設立はまだ歓迎される状況ではなかった。しかしいかなる困難も彼の心をなえさせることはなく、帰国から一年もたたずに京都の地に同志社英学校を開校した。
とはいえ、キリスト教主義を公に打ち出すことはできなかった。
その頃、熊本洋学校の学生たちが「奉教趣意書」に署名したため、激しい反対運動が起こり、熊本洋学校は閉鎖に追い込まれた(参照:第263回)。
教師ジェーンズは新島に手紙を送り、学生たちの引受先を依頼した。同志社英学校に移った「熊本バンド」の優秀な学生たちは、ジェーンズの助言により同志社英学校の質の向上に努め、同志社大学の礎を築いた。
札幌農学校の教頭として第一期生をキリスト教信仰に導いたクラーク博士は、アーモスト大学の出身であり、新島の存在を知っていた。日本を去る前に新島を激励するべく、開設間もない京都・同志社を訪問している。
明治期、東西に芽生えたプロテスタント復興運動のつなぎ目となった新島襄と同志社が、名実共にキリスト教主義の大学としての姿を持つにはもう少し時間がかかった。
創始者としての責任を果たすべく奔走した新島襄は、残念ながら1890年、46歳の若さでこの世を去っている。
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