2023.06.06 22:00
スマホで立ち読み Vol.24
『祝福結婚と原罪の清算』7
太田朝久・著
スマホで立ち読み第24弾、『祝福結婚と原罪の清算』を毎週火曜日(予定)にお届けします。
ここでは第4章「原罪の清算」を紹介します。
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第四章 原罪の清算
二、血統転換(重生)とは何か
「血統転換」の概念
さて、ここで確認しておきたいことは、「血統転換」の概念についてです。
私たちは「原罪清算」、あるいは「血統転換」という言葉を聞くと、ややもすると、その概念を、すぐさま“生物学的な観点”からとらえてしまいやすい傾向性をもっています。
しかし、この原罪清算、血統転換の概念を、生物学的な観点から早計にとらえてしまう過ちから、誤解されて、いわゆる「血分け」という風聞が生まれてしまうことにもなったのです。
実際、いわゆる霊的集団といわれるグループの中には、原罪清算や血統転換の概念を、完全に履き違えてしまったため、統一教会が最もタブーとする天法違反、すなわち、不倫なる行為に及んでしまっているケースがあります。
原罪清算や血統転換の概念を、生物学的な観点からのみとらえてしまうことは、とんでもない御言(みことば)の曲解へとつながってしまいかねないので、注意しなければなりません。
「血統」の概念は、神を起点に、神と一体となった「真(まこと)の父母」によって顕現する“愛” “生命” “血統”が、私にまで流れてくるというその連結性、すなわち、“血筋”を言い表す概念です。
また、御言に、
「愛は根元であり、生命は木の幹であり、私(血統)は枝と同じです」(1989年6月19日)
「愛と生命と血統は、三位一体です。離すことはできません」(1994年4月11日)
とあります。愛と生命と血統は、一つの連続性をもった概念であり、分けて考えることのできないものです。そして、それらのすべての基盤となるものが、“神の心情圏”なのです。
つまり、まず、愛が原因となって、そこに生命が生じ、そしてその生命と生命の連続性によって生じるのが血統(血筋)です。
この血統の概念を考えると、それを「転換する」ということは、まず“真の愛”を中心として、“真の生命”に生み変えられなければならず、その上で初めて、血統を転換していくことが可能であるということを意味しています。
したがって、血統転換は、ただ単に、生物学的なレベルで性関係を結べば転換されるといった安易なものではないことは当然のことです。
一方、「原罪」という場合の“罪”の概念は、あくまでも「天法に違反する」ことを意味しており、それは、神とサタンとメシヤとの“天の法廷”において下される、天法に照合させた“法的評価”を意味するものです。
何度も強調しますが、「罪」は何か物質的なものとして、血液に貼(は)りついたり、肉体のDNA遺伝子の中に書き込まれたりといった、存在論的なものではありません。それは、どこまでも“天法”との間で下されている法的な評価であり、関係概念に属するものです。
ゆえに、原罪が遺伝するといった場合、それは生物学的に伝播(でんぱ)しているのではなく、人間始祖アダムとエバが天法に違反したことによって発生した罪責が、法的評価として、血統(血のつながり)を条件に子孫へ伝播(転化)することを意味しているのです。
このように、原罪が、生物学的遺伝によって伝播しているのではない以上、いくら理由をつけて性行為を行ったところで、決して原罪は清算されない性質のものであるということを理解しなければなりません。
「原罪を清算する」とは、どこまでも、人間始祖アダムとエバが堕落したとき、「天法に違反する」ことで発生させた“罪責”を、真の父母を中心に、反対の経路に従って消滅させることで清算するという、その具体的手続き(聖酒式)を経ない限り、決して清算されないのです。
そして、血統を転換する場合は、神の“愛” “生命” “血統”をもったメシヤ(真のアダム)によって、まず“真の生命”に生み変えられ、その血統にいかに接ぎ木されるかということであり、それは、人間始祖である真の父母を通して行われる、ただ一つの手続き(聖酒式と三日行事)を経てこそなされるものです。
この血統転換の手続きも、真の父母を中心として、堕落と反対の経路に従って、真の愛、真の生命、真の血統を相続しなければならないのです。
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次回は、「真の父母となるべき人間始祖」をお届けします。
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『祝福家庭と神の血統』(光言社刊)