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神の沈黙と救い 27

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第四章 神の人間創造と罪からの復帰
三 人間に愛を与えられた理由

人間相互の愛のため

 それだけでなく、神が人間に愛を与えられたのは、もちろん人間同士が互いに愛し合うためである。その際、人間の愛の絶対的基準となるのは、神の愛である。

 「父(神)がわたし(イエス)を愛されたように、わたしもあなたがたを愛した」(ヨハネ一五・9)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互(たがい)に愛し合いなさい」(同一五・12)。

 したがって、人間にとって神から愛されること、キリストから愛されることがいかに大切かが分かる。神から、キリストから愛されて初めて、人を愛そうという動機が生まれ、愛する方法が分かる。莫大な数の殉教者を出しながら、なおキリスト教が生き残り、世界最大の宗教となったのは、この愛の行為の神来性の伝統のためであろう。

 これが、ユダヤ教(旧約時代)では次のように教えられていた。

 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ二二・3640)。

 ここでは、隣り人を愛する基準が「自分を愛するように」と自愛に置かれている。しかし実際には親から十分に愛されないで育った者の中には、自分をも大切にせず、自分を破壊するような向こう見ずで無軌道な生き方をする者もある。それゆえ、神から愛されたようにというのが本当であるが、イエスが来られるまで、だれも神から直接愛されるという体験をもった者がなかったので、不十分だが、こういわざるを得なかったのであろう。

 またイエスは、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・37)とも言われた。これは、神(と一体の人)から愛されることと同時に、神を愛することの大切さを教えられたものだといえる。

 愛は理屈で説明できるものではなく、何より体験である。原罪の恐ろしさも、何よりもこの神から愛され、また愛するという実感的体験を非常に困難にしてしまったところにあると思われる。

 以上を総合していえば神は人間を自らの子供として愛し、また人間から親として愛され、その子供が順次、兄弟の立場、夫婦の立場、父母の立場を通過して、そこで愛し愛される体験を積み重ね、子々孫々、神を中心とする大家族として、全世界に愛がみなぎりあふれるようになるために、人間に愛を与えられたのだと思われるのである。

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 次回は、「人間の復帰と神の国実現」をお届けします。