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神の沈黙と救い 26

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第四章 神の人間創造と罪からの復帰
三 人間に愛を与えられた理由

 では、神はなぜ人間に愛を与えようとされたのか? この問題を掘り下げると、さらに深い神の秘密、それもこれまで人が全く気づいていなかった死角に分け入ることになる。

愛の対象として

 それは、全知全能の神といえども、お一人では愛が成立しないということである。愛するには愛の対象がいる。では一体何が神の愛の完全な対象となり得るか? 動植物は神が人間を喜ばそうとして、本能的な情や反射によって動くように造られたものであり、人間のように創造性はなく、したがって神に愛の刺激を呼び起こす発見の喜びという点では不十分である。また、神の目的や心情など、心の隅々までことごとく理解して一体化するということでも無理がある。

 そうなると、神の愛の対象となり得るものは、神にとっても未知な部分のある創造性と、神の知情意に対応するもの、すなわち人格を与えられた人間だけだということになる。となると、神にとって人間はいかばかり貴重な存在であろうか。

 人間は原罪によって堕落(本来の位置と状態を失い、したがって本来の価値を失ったこと)したために、神の偉大さと比較して、いかにちっぽけなつまらない存在かという自己意識ばかりがとかく強調される傾向があった。それは人間が傲慢にならないために必要なことではあったが、そのために、現実の自分を見るだけで、堕落しない本来の人間の価値性についての自覚がおろそかになっていたように思われる。

 結論を先にいえば、神の完全な愛の対象はほかならぬ人間であり、神は人間を心から愛したいと願うとともに、人間から心から愛されたいのである。神は全宇宙の創造主であられるから、カネで買えるようなものはすべてお持ちである。全知全能であられるから、知識も必要ではない。権力や名誉も必要ではない。しかし、いかに全知全能であられても、愛だけはお一人では得られない。ゆえに、神もまた愛の対象を求めるとともに、愛を求められる。もっと正確にいえば、愛を得たいために人間を創造されたのである。その点において、人間は単に神の子であるにとどまらず、神の相対者、第二の神、絶対的絶対者であられる神の相対的絶対者といってもよい存在だといえる。

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 次回は、「人間相互の愛のため」をお届けします。