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祝福の絶対価値と神氏族的メシヤの責任完遂 6
祝福の価値を知る

 今日も「一日の出発のみ言」をお届けします。
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(光言社・刊『祝福の絶対価値と神氏族的メシヤの責任完遂』より)

第一章 祝福の絶対価値

第一節 祝福の絶対価値と原罪の清算

(二)祝福の絶対価値①

 み旨を中心として「祝福」という言葉を考えてみるとき、この言葉は、統一教会から始まったものではありません。この言葉は、今まで神様が復帰摂理をしてこられる中で心の中にもっていたものであり、これが実践されることを願いながら歩んでこられたことを、私たちは知っています。

 神様は、エデンの園にアダムとエバを創造され、彼らを祝福してそれが成就されることを願われました。それから四千年の歴史過程を経たのちに、本来、与えたいと思われていた祝福を決行するため、イエス様をこの地に送られたのです。しかし、イエス様も、その祝福の位置まで進むことができずに亡くなりました。それ以降も、数千年のキリスト教の歴史過程で、多くのキリスト教徒が殉教の血を流しながら闘ってきましたが、神様のその願いを今も成就できずにいるのです。

 したがって、この「祝福」という言葉は、統一教会から始まったものではなく、創世から堕落以後の今日まで、歴史過程を通じて、心の中の一つの願いとして、神様が常に追い求めてこられた言葉なのです。

 そのような願いの一日を取り戻すために、神様は、今まで受難の道を歩んでこられました。ですから、その一日を取り戻せば、その日は、歴史的な解怨成就の日であり、神様の歴史的な願いが成就する日だというのです。このようなことを考えるとき、この祝福の位置がどれほど途方もないものかという事実を、私たちは知らなければなりません。(3011641970.3.22

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 明日は、「四位基台を完成できる基点」をお届けします。