2023.04.24 12:00
愛の勝利者ヤコブ 31
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
ラケルとの出会い
こうしてヤコブは誓いを立てた地、ベテル(神の家)をあとに隊商が通り抜けた足跡をたどり、出会う人ごとに道を確かめながら、一路、東北の方角にあるハランをめざしてたゆみなく歩み続けた。天のはしごの夢と、今も耳に残るこだまのような神の啓示とを心の中で反芻(はんすう)し、もう一人ではない。
神がいつもかたわらで見守ってくださっているのだと思うと、心細さはことごとく消え、足取りも軽くなっていた。とはいえ、一日中砂や山また山、いばらの茂みが時折目を楽しませてくれるだけで人っ子ひとり出会う者もないままに、赤い砂塵(さじん)が熱風となって絶えず吹きつけてくるような日はさすがに心細く、このまま動けなくなって死んでしまうのではないかと思うこともあった。
そのたびにヤコブは「わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行う」と、はっきり言われた神の言葉を心に思い浮かべた。
イエスは荒野を40日、断食をしてサタンからの試みを受け、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」(マタイ4・4)と応酬されたが、ヤコブは砂漠とともすれば崩れ果てようとする自分との闘いの中で、この道理を観念ではなしに、体験そのものとして骨身に徹して体で悟ったのである。
自分は神なしには生きられない。ほかには何も要りません。あなただけがすべてです。そう言いながら、日に焼けて見る影もなく色あせた服、すり減って足の裏がそのまま熱い大地にめり込みそうな靴、まめだらけで痛みそのものと化した足、食糧も尽き果て、飲む水も残ってない苦痛と、疲労と、襲ってくる眠気と、ヤコブは闘い続けた。
もうだめだ、これ以上は──と思わずくらくらと砂地に倒れ伏すと、思いもかけず一陣の涼しい風がさっと頬(ほお)をなでて通り過ぎる。ああ神様、ヤコブはなんと意気地なしでしょう。そんなお心遣いは無用です。どんなことがあろうと負けるものですかと、また立ちあがる。
こうした一瞬、一瞬のうちにヤコブは神を目の当たりに感じた。神の厳しさと優しさとを二つながらに……。
ある時は盗賊に身ぐるみ剥(は)がれ、これまでと観念しているところに隊商が通りかかり衣食を恵んでくれる──そうしたこの世のありとあらゆる悪行と善意とに当面し、そのたびごとにヤコブは神の愛と痛みと喜びと悲しみ、何事にも驚かずじっと耐える力と信じる心、許す心を一つ一つ学び取り、身心共に鋼鉄のように鍛えあげられていくのをまざまざと感じた。
3週間もそうして歩き続けたろうか。突如遠くに緑の山が見え始めた。足もとの砂地がみるみるうちに黄金色の生き生きとした草のうねりに変わり、やがてそれが一面の緑に埋め尽くされていく。生まれて初めて見る信じられないような壮観──それでいて生まれた時からそこにいたような、何ともいえない懐かしい感じがした。
ああこれがメソポタミアだ。母リベカがエサウと自分のお守りをしながら、毎晩のように枕もとで話してくれた大河をかこむ広大な緑の沃野(よくや)──ああ神様着きました。ただあなたと共にたった一人で。奇跡です。あなたなしにだれ一人頼る者のないわたしが、どうしてあの気の尽き果てるほどの長い砂漠を渡り切ることができたでしょう。
ヤコブの頬に熱いものがあふれ落ち、いつしか目の前がぼんやりとかすんでいくのを感じた。
と……そのぼやけた視野の中に、何か懐かしい生き物のうごめく姿が飛び込んできた。あっ、羊の群れだ。それも一つではない。三つの群れが分かれ分かれにたむろしている。よく見ると、その前に大きな石を載せた井戸らしきものが見えた。若者たちはどうしたわけかその石をよけて水をくみあげようとはせず、何かを待ち受けている様子である。
母リベカが、嫁探しに来たアブラハムの老僕と出会った時の光景はちょうどこんな具合だったのではないかと思い巡らしながら、ヤコブは若者たちに呼びかけた。
「あなたがたはどこから来られたのですか?」
「ハランです」
うれしさに踊りあがるような気持ちに襲われ、舌をもつれさせながら聞いた。
「じゃあ、ナホルの子ラバンを知っていますか?」
「知っているどころの話じゃありません。一緒に羊を飼っているのです」
「えっ、でみんな無事ですか?」
「ええ、みんなそれは元気ですとも。すぐにその娘のラケルが、羊と一緒にここに来ますよ」
えっ、とヤコブは再び飛びあがりそうになった。
「へえ、そんな大きな娘さんが? 懐かしいなあ。しかし、それはそれとして、なぜあなたがたはこんな所にぼんやり座っているんです」
「ラケルを待っているんですよ。なにせこの石のふたは重いですからね。待ち合わせて一斉に羊に水を飲ませる申し合わせをしているんで」
「なるほど」
そんなことを話し合っているうちにラケルと覚しき少女が、羊の群れを連れてやって来た。その愛らしさに息をのみ、ヤコブは思わずひざが前にのめり込みそうになるのを感じた。時計の針が一挙に50年も前にもどったのでは、と錯覚を起こすほどだった(*8)。
ラケルはリベカによく似た、利発でこの世の者とも思えない美しい顔立ちをしていた。若き日の母もきっとこうだったのだろう。いやもっと美しい。この少女以外に自分の妻となるべき娘はいない。とっさにヤコブはそう思った。
ヤコブは旅の疲れも忘れて井戸の前に歩み寄ると、その大きな石を満身の力を込めて持ちあげ、横に転がした。一体どういうことだろう。ラケルもまわりの者も、仰天しながらヤコブの荒々しい動作を見守っていた。
「いや申し遅れました。わたしはラバンの妹リベカの次男でヤコブと申します。わけあって砂漠を800キロも一人で横断し、今ここまでたどり着いたところなのです。こんなにも早く一族の者に会えようとは思わなかったので、うれしさのあまりつい……」
「ああ、そういうことですか。分かりました。しかしあなたは失礼ながら、きゃしゃな体に似合わず大力無双ですな。この石は、わしらはいつも三人総がかりでひっくり返すのですよ」
「そうとは知りませんでした」
「ラケルがあまりにかわいいので、思わず力が入ってしまったんでしょうな」
みんなは爆笑した。
ラケルもヤコブを見て、何か電撃のように感じるものがあったのだろう。双方から磁石に引っ張られるように歩み寄った。ヤコブはラケルを抱き、その頬に口づけした。ヤコブの目からもラケルの目からもとめどもなく涙が流れ、果ては鳴咽(おえつ)に変わった。まわりの者はもう二人の眼中になかった。「声をあげて」(創世記29・11)泣きに泣いたと、聖書にはある。
800キロも隔たり、親の代から数えれば50年以上、互いに全く消息も途絶えたままだった従兄妹(いとこ)同士の出会いである。懐かしくなかろうはずがない。しかし、二人の感情のうちにあるものはただそれだけのことでは片付けられない、もっと運命的なものがあった。
ヤコブはラケルによって、ラケルはヤコブによって初めて生きる意味が与えられる。──そう神があらかじめ定められ、この地上に生み落とされるように計らわれたのであろう。この二人の間から、奴隷の身分からエジプトの宰相にまでなる有名なヨセフが生まれてくるのである。
しかしそれはまだずっと先のこと。ラケルは血を分けたヤコブに会えたことがうれしくてたまらず、羊が水を飲み終わる間ももどかしく、一目散に家に走って帰り、父ラバンにそのことを話した。
ラバンもそれを聞くなり家を飛んで出てヤコブを迎え、遠い所をよくも一人で無事にここまでやって来たと、ヤコブを抱きかかえて口づけした。
しかしラバンはラケルほどに無心ではなかった。らくだや従者を伴ってというならともかく、名門の大族長アブラハムの実の孫ともあろう者が、たった一人で800キロの砂漠を渡ってくるなどとは常識では考えられないこと。そこには何かのっぴきならない深い理由があるに相違ない。
そう思って家に連れて帰ってくると、食卓をかこみ、ぶどう酒を傾けさせながら、それとなくどういう事情でハランまで一人でやって来たのか、根掘り葉掘り尋ねた。ヤコブは正直にすべてをラバンに打ち明けた。
事情が分かるにつれ、ラバンは、表情こそいかにも親切に親身になってヤコブのことを考えてやっているように微笑みながら、内心では「しめた、この弱味につけ込めば相当のもうけ仕事ができるわい」と、抜け目なくそろばんをはじいていた。
*注:
(8)イサクの祝福の記載の直前に、エサウが40歳で二人のヘテびとを妻にもらったという記事があり(創世記26・34)、ヤコブはそれと同年なので、聖書の記載に従えば、この時ヤコブは少なくとも40歳以上でなければならない。なお、聖書の記述をそのまま信用すると、この祝福からヤコブが逃亡するまで40年近くかかっている計算になる。
しかしいくら何でも80歳になってから嫁探しに行き、その後20年もラバンのもとで重労働を行ったとは考えにくい。創世記での年齢の記述はいずれも過大なので、年齢の数え方が現在と違うか、あるいは(これが『原理講論』の解釈の仕方であるが)神の摂理の「数理」を明確に示すため、たとえば、40日を40年と表現するなど、象徴的に「数」の表示をしたのだとも考えられる。聖書の描写からすれば、この時ヤコブは20代か、少なくとも30代を越えているようには思われない。
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次回は、「ラケルへの求婚」をお届けします。