2023.04.17 12:00
愛の勝利者ヤコブ 30
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
かかとをつかむ者
心理学の手法の一つに投影法というのがある。例えば、机にもたれて考え込んでいる性も年齢も不明の人、そのかたわらに壊れたギターが意味あり気に転がっているといったあいまいな図形を示し、想像力の豊かさを見たいのだというようなことを言い、それがどういう情景なのか語らせるのである。すると知らず知らずのうちに往々当人さえも気づかずにいる自分の人格、欲望、問題などが浮かびあがってくることがしばしばある。
ヤコブの言行を物語作家や註釈者がどのようにとらえ説明しているかを見ると、それと同様の現象が起こるようだ。ヤコブは損得を度外視したひたむきな誠意とずる賢い謀略の才覚、優しさと非情さ、忍耐強さとすばしっこさ、謙虚さとふてぶてしさ、大胆さと用心深さ、思い切りの良さと執念深さといった一見矛盾し合うような資質を兼ね備えている。
神に仕える選民の祖たらしめるために与えられた非凡な天性なのだろう。
そのうえ、神が彼に課せられた使命、状況、──これも一筋縄では理解しがたい複雑多岐なものである。そのため、どういう観点に立って眺めるかによってヤコブは悪党にも義人にも見えてくるのである。
エサウから長子の家督権をだまし取ったいきさつについての評価もそうだったが、天にまで届くはしごの夢を見たあとでヤコブが神に対して立てた誓いの内容に関しても、その評価は極端に分かれてくるのだ。たとえば、フリッチは「商人のようなヤコブは、全能者ご自身とかけひきをするほど卑怯(ひきょう)になる」とまで言っている。山室軍平の見方も大筋はそうである(*7)。
しかし、このヤコブの誓いを神との「かけひき」ととらえたりするのは、ヤコブの置かれた状況との関係から見れば、酷に過ぎるのではなかろうか。
所は石ころだらけの郊外、それでさえ一木一草の影さえ見えない果てしない砂漠に比べれば、人家が近くにあるというだけでどれほど心強いことか。へたをすれば一日中だれとも出会わない。出会えば出会ったで襲われて身ぐるみ剥(は)がれ、命まで奪われるかもしれない。
昼は燃えるような酷暑、夜は凍りつくような厳寒。街でなけなしの懐をはたいて得た食糧が尽きてしまわないうちに次のオアシスにたどり着けるという当てもない中を、どうやららくださえも与えられず、徒歩で800キロもの気の尽き果てるような長い道のりを踏破しなければならないのである。たとえ相手が自分の親であっても──いや親であればなおさらのこと、無事目的地に着けるよう守ってくださいと願うのは、きわめて自然な心の発露なのではなかろうか。
イエスご自身、普通の日常生活の中においてさえ、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。……わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6・11〜13)と祈ることを勧めておられる。まして苛烈(かれつ)な砂漠をただ一人で渡ろうとするヤコブが、これとほとんど同じ意味の願いを込めて祈ることの一体どこに非難に値するような「卑怯」さがあるというのだろう。
私にはヤコブの誓いが神との「かけひき」だとはどうしても思われない。虚勢を張って強さを装ったり、信仰を実際以上に深く見せかけようという作為がなく、自分の弱さ、不安、心配を正直ありのままにさらけ出しているところに、私にはむしろヤコブの純粋さ、誠実さが感じられる。
また、神が夢の中で啓示されたことが事実なら、自分は「父の家」にまで無事に行けるはずであり、そうすれば「あなたを捨てない」、かつまた全知全能の存在であることが確実に分かる。したがって、その点をはっきり確かめて心から納得したうえで、あなたをわたしの神として仕えようと誓約した慎重な態度は、科学的、実証的な精神の発露であり、この点においても非難すべきところは見いだしがたい。
ちなみにこのように確かめたうえで信ずることを、イエスにおいて現れた神も決して否定されてはいないのである。現に12弟子の一人であるトマスは、イエスが復活してほかの弟子たちの前に現れたということを聞いて、十字架にかけられた時の手の釘(くぎ)あとに指を入れて、確かにその傷あとが残っていることを確かめるまでは信じないと言い張った。イエスはそれをとがめずトマスの要求どおりにさせたうえで、信じる者になれと言われ、ただそのあとで軽く、「見ないで信ずる者は、(それにもまして)さいわいである」とつけ加えられただけであった。
トマスが信ずることにそれだけ慎重だったことは一般のクリスチャンもとがめず、軽蔑(けいべつ)もしていない。カトリックは今も「聖トマス」という最大の敬称で呼び、トマス・アクィナス、トマス・エジソンのようにそれを自分の名にしている者も多い。特に学者肌の人にこの名が多いようだ。今日でも、同様の大いなるわざを見てしかも信じない者が多いのだから、見て確かめたうえでも、とにかく信じたトマスを非難する資格はあるまい。
さらに、ヤコブはそういう石橋をたたいて渡る慎重な性格だったからこそ、やや軽率だったアブラハムのような誤り(創世記15・9〜11)も犯さず、難しい数々の試練を一つ残らず勝ち抜き、イエスは別格として、普通の人間では空前絶後の完全勝利者(創世記32・28)イスラエルとなったのである。
まさしく彼は「かかとをつかむ者」という名のごとく、いったんこうと狙(ねら)いをつけたら食いついて死んでも離さないしぶとさを神から賜(たまもの)として与えられ、その天性を足がかりにして神の願いを果たし抜いた、まれに見る勇者なのである。
*注:
(7)フリッチは、ヤコブが「父の家」、アブラハムの郷里ハランにまで無事に着けるよう、道中の安全と衣食の確保を神に祈願し、その願いがかなえられたら創造主ヤハウェを自分の神としようと言うのを、「商人のようなヤコブは、全能者ご自身とかけひきをするほど卑怯になる」(『創世記』、日本基督教団出版局)とまっこうから非難している。
山室軍平は「これはいささか神との間に、取り引き勘定をなそうと試みたきらいがある。けれども彼がかくして、信仰生活の第一歩を踏み出したのは、ともかく喜ぶべきことであった」(『民衆の聖書1 創世記』、教文館、200頁)と、この誓いの建設的な面を評価しようという姿勢は見えるものの、やはり全体としての受け取り方はフリッチの否定的な見方に近い。
アンドレス(『聖書物語』、春秋社)、フーセンエッガー(『聖書物語』、ブックマン社)、犬養道子(『旧約聖書物語』、新潮社)はノー・コメント。小出正吾(『旧約聖書物語 全』、審美社、75頁)、ヴォス(『母と子の聖書──旧約上』、小峯書店、130〜131頁)、ムーディー聖書物語(『聖書物語・旧約2』、日本日曜学校助成協会、55頁)は、この誓いをそれまで不安で孤独であったヤコブの心に、希望や勇気、平安が与えられたことを示すものと肯定的にとらえ、家督権の横奪については異常なまでに厳しいデ・ヴリース(『少年少女聖書物語』、白水社、45頁)も同様である。
家督権争奪問題に関しては女性の著者が概して否定的で、男性のほうが肯定面を併せて指摘しているのとは逆の傾向が見られて興味深い。(フリッチ、山室、アンドレス、小出は男性。フーセンエッガー、犬養、ヴォス、デ・ヴリースは女性の著作家である。なおこのほかに、三浦綾子『旧約聖書入門』、光文社、内村鑑三『聖書注解全集1 創世記』、教文館、などの著作があるが、この二書はヤコブについて何も触れていない)
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次回は、「ラケルとの出会い」をお届けします。