2023.04.23 13:00
神の沈黙と救い 23
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第四章 神の人間創造と罪からの復帰
二 人間に創造性を与えられた理由
では、神はなぜ人間に創造性と愛を与えようとされたのであろうか? その問題を掘り下げると、一種の戦慄(せんりつ)さえ覚えるような神の深い秘密と直面するようになる。
神と人間は親子の関係
まず人間に創造性を与えたのは、人間を「ロボット」としないためである。
「主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」(創世記二・19)。
これは前にも引用した箇所であるが、ここに、神は獣と鳥にどんな名をつけるかを見られたという記述が見られる。ここでもし人が神のロボットで、神が人の唇にあらかじめ与えておいた名をいうだけだったら、何の面白味もない。神ご自身でさえ思いもかけない名をつけるからこそ初めて刺激的で、それが神の喜びとなるのである。ここで、神が喜びを得るために人がどういう名をつけるのかを予知できるほどに神が全知であってはならない、という逆説的な結論が出てくる。
神は明らかに、初めからもっておられる全知全能性を独占することによって完全に支配はできるが、発見の喜びのない、無味乾燥な世界を造る代わりに、その全知全能性と同質のものを人間に与えるという冒険をあえてなされると見られるのである。
この獣や鳥はご自分で大変な労力をもって、ビッグバンの時から数えれば百億年以上もかけて造られたのに、その名はご自分でつけずに人につけさせる。そしてそれが生き物の名となったというのである。どんなに神が人間を愛しておられるかはこの一事で分かる。どんなに苦労されたかということはおくびにも出さず、最後にちょっとやらせて、それをもって人間にすべての功労を譲ろうとされるのである。
このほほえましい情景は、まさに親と子の関係そのものではあるまいか。ここに神の人間創造の最も深い目的を読み取ることができる。それは実に、神は子をもちたいからこそ、ご自身のすべてに似せて人間を造られたのだということである。神と人間の本来の関係は親子関係である。ここに世界のすべてのなぞを解き明かす究極のかぎがあるといってもよい。
キリスト教では、イエスは神のひとり子であり、神の実子、いや神そのものでさえあるという(三位一体論)。しかし、人間が神の子として扱われなくなったのは、人間が原罪を犯してその本来の価値を喪失したからであり、本来の神の実子、実体をもつ有形の神と見てよい存在なのではあるまいか。一般の人間とイエスとの相違は、原罪があるかないかという一点にだけあるのであり、前にも述べたが、原罪がなくなり、自己創造に成功すれば、すべての人間は神の実子、神が宿られる「神の宮」(第一コリント三・16)であり、神の実体、有形の神といってもよい内容を備えているといえる。
父なる神は「よしでかした、それをお前にみなやろう」と、子なる人間に栄光を帰す。それに対して子たる人間は「いいえすべては神がなさったのです。私がした分もあなたがそういう能力を与えてくださったからできたのです」と、父にすべての栄光を帰す。これが親子の自然な情の発露である。しかるに、その全知全能性の一部を頂いた人間は往々いい気になり、自分が偉いのだと思い上がる。そのために、その傲慢さをたしなめて、すべてを神の栄光に帰しなさいと宗教が教えてやらなければならなくなるのである。
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次回は、「喜びを交換し合う神と人間」をお届けします。