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神の沈黙と救い 22

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第四章 神の人間創造と罪からの復帰
一 人間の創造

創造性と愛を表出するための人間の自由

 では、神の性質とはどういうものか。まず第一に、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記一・1)とあり、天地のすべてのものを造り出す創造性がある。第二に、神は、「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」(第一ヨハネ四・16)とあるように、愛そのものであられる。したがってそれとそっくりに造られた人間にも、この創造性と愛が与えられていると見てよい。

 創造性とは、自分独得の思いつきを構想を練って実現することであり、そのような創造行為が可能となるためには、まずもって自由意志と自由行動とが保障されていなければならない。

 そのために神は人間に自由を与えられたのである。

 人間が神とそっくり似るようになるためには、神がほかの何者かによって創造されたのではなく、自らの手で自らを創造されたように、人間もやはり自分の手で自分自身を創造しなければならない理屈である。もちろん人間は被造物なので、全くの無から自己創造することはできない。そこで神は、人間の自己創造に必要なものをすべて人間に与えられた。しかし、それらの素材で自分を創造する自由と責任は人間にあるのである。

 こうして、もし人間の自己創造が神の願う基準にまで到達したとすれば、人間のうちには宇宙を構成するすべての要素があるので、その人間には宇宙を創造したのと同じ価値があるといわなければならない。「自ら創造したものしか使用する権利はない。他人の創造したものを使いたければその価値に等しい代価を払わなければならない」、というのも神が定められた原則である。例えば、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(第二テサロニケ三・10)とパウロは言っている。

 自己創造を成し遂げた人間は宇宙を創造したのと同じ価値がある。それゆえ、宇宙を使用し管理する権利がある。したがって神は、人間が自己創造を成し遂げるということを当然の前提として、「地を従わせよ」「すべての生き物を治めよ」(創世記一・28)と祝福されたと見られるのである。(自己創造に成功したものはその秘訣が授受とバランスにあることを体得しているので、自然に理不尽な暴力を加えることはしない。公害など自然の生態系が破壊されるのは、自然を管理する資格のない者が管理するという越権を犯しているからであろう。)

 このように、人間は神と似るために、自分の環境はいうに及ばず、自分自身をまで自分で創造するように祝福されている。この創造の途中で、それは思い違いだから、悪だからといって神が干渉すれば、人間は始めから終わりまですべて独力で創造したということにはならず、神の人間の創造目的を達成することができない。これが、神が人間に対しては悪なることでさえ干渉されないという一つの理由なのである。

 現に、例えばマクルスやレーニンは、まっこうから神を否定する戦闘的無神論に基づいて、神なき地上天国思想(共産主義)とその実現のための戦略戦術を構築し、教会その他の宗教的権威をことごとく破壊し根絶やしにしようとさえしたが、神は直接的にはこれを制止せず、やるがままにまかせた。

 彼ら共産勢力に先に、ロシア帝国、東欧、中華民国、蒙古、北朝鮮、インドネシア、中南米、中東、アフリカなどの神側(宗教勢力)の国々を打つことを許し、宗教勢力を浄化するとともに、その自覚をうながして、打たせて受けて立つ言わば受け身の戦略をもって共産側が自然崩壊するように摂理された。

 人間に与えられた愛も、自由な発露から生じたものであって初めて価値がある。強制された愛は死である。あるいは単なる演技にすぎない。

 このように見ると、神は人間に、創造性と愛を表出するための前提として、自由を与えられたということが分かる。

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 次回は、「神と人間は親子の関係」をお届けします。