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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(102)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
五、愛の減少感

▲金元弼先生

責任をもつ

 主管しなければならない人間が、主管を受けたことが堕落です。いくら私の生命を脅かすことがあっても、主体性を守れず、原理的位置を確固として守っていくことができなかったのは、天使長の責任というよりも、人間の堕落性であったのです。

 人間復帰には、主体性をはっきり守り、原理原則に従っていくことが非常に大切なことです。責任はすべて主体にあるので、責任を転嫁するという堕落性は、対象の立場には縁が遠いのです。責任は、アダムにあるのであって、天使長には絶対にありません。

 地区長であれば、下の者が失敗したら責任を負わなければならないのに、「あの人は、私がこういうふうに話したのに、言うことを聞かなかったから」と責任転嫁するとしたら、それは堕落した人間の堕落性を受け継いだ、そのままの姿です。自分の下の者が失敗したら、責任をもっている自分自身が失敗したように考えないのでは、誰が侍ることができますか。

 メシヤは十字架にかかった悲運なメシヤであったけれども、その責任をイスラエル民族に負わせないで、御自分に負わせたというのです。

 カインの本質というものは疎外感であり、それが勝利できなかった、その世界的なカイン型が共産主義陣営です。だとするならば、疎外感が極度に発達したものが断絶ですから、神と人間は関係がないということになります。共産主義の本質は、「神と人間は関係ない」ところにあるということになってくるのです。

 呪って疎外の極に至ったとしても、神に帰ることができたならば、天使長が乗り越えたのと同じ境地になるのです。私たちは、口には出さずに心の中で呪ったとしても、力を失っていくことをしてはいけないのです。ここが大切なところです。天使長がそういうところで倒れたのです。神は、倒れる直前の境地にまで私たちを導いていくのです。

 誰も願わないのにそういう心が起こるのは、神が起こさせたのであって、自分自身がもたらしたのではないのです。もちろん、自分が相対基準をもたなければ、そこまで発展しないで立ち返れるのですが、復帰するために、神はそういう境地に導くのです。ですから、そういう境地にあっても挫折してはいけません。これが神の道を覆した、恐ろしい敵であると悟って、私は罪人であるという心で、これを迎えるのです。

 そうでないと、先祖がこの中にあってすべて倒れたのですから、私が勝利しなければ、今まで倒れた先祖を復帰することはできないのです。そういうことを考えなければならない境地です。それを乗り越えた時、私によって霊界が解放されていくということを考えなければいけません。

 目に見えないものが私の決心を覆していくことを見るとき、これが一番恐ろしい敵であることを知って、普通のように処理してはいけません。現象というものは、再現されたものであることを忘れてはいけないのです。そうでなければ、私は天宙の中心者だとは言えないのです。人類を復帰し得ないのです。

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 次回は、「神も愛の減少感を感じる」をお届けします。


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