2023.03.19 13:00
神の沈黙と救い 18
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第三章 失楽園での神の沈黙
二 失楽園での出来事
原罪とは何か
では、天使長ルシファーは、一体女(エバ)に何を食べろと誘惑したのであろうか? 単なる果物ではあり得ない。どんな果物であろうと、それを食べることが乳飲み子を銃剣で突き刺すことよりも悪いということはあり得ないからだ。また、多くの神学者の解釈のように「善悪の知識」を得るということでもあり得ない。善と悪の区別を知ることがどうして犯罪となるか? もしそれが犯罪であれば、「善悪を知る木」の実を食べることだけが死に当たる悪だと、善悪の区別を神が教えられたことも犯罪だといわなければならない。
それでは一体何か? ――それをいろいろの角度から総合的に考えてみることにしよう。
創世記には次のように書かれている。
「主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」(二・19)。
この記述から見ると、人は神と絶えず一問一答して、神の創造世界について、またその中での自分の役割について学びながら、楽しく暮らしていたらしいことがうかがえる。神が「獣や鳥に名をつけよ」と言われたのであるから、名をつけることは善であり、悪ではありようがなかった。人が名をつけることを神は喜び、訂正することなくすべてその獣や鳥の名とされた。このように、神と人間とが一体で、常に楽しく一問一答しながら暮らしていたのであれば、すべては神の心にかなうと共に、人間にとってもすべては喜びであって、そこに「悪」という名の裂け目が生じる道理はない。したがって、
①原罪(悪の根源)とは、この神と人間との一体関係を根本から破壊するものだと考えなければならない。
神は「善悪を知る木」の実を食べれば死ぬといわれたのに対し、ルシファーは食べても死なないと全く逆のことをいってエバを惑わせた。かくして最終的にエバは、神の言葉は無視し、ルシファーの言葉を信じて、禁断の木の実を食べてしまった。すなわち、神に対する信頼(信仰)のほうがルシファーに対する信頼より弱かった。このように、エバの逸脱行為は神への不信仰を意味するものと、多くのキリスト教の伝統的神学は見ている。
しかし、神が食べれば必ず死ぬと断言したものを、ルシファーが反対のことをいったからといって、「それにも一理ある」という単なる知的判断だけで後者に従うということがあり得るだろうか。
「愛は死よりも強し」という言葉もあるように、死を恐れなくさせるものは愛である。それだからこそ、愛を全うするために二人が死ぬ――心中という事件も生じる。それゆえエバにまずルシファーへの強い愛があって、「死んでも構わないから、あなたのいうことを信じよう」、いや「信じたい」という激情に押されて、初めて禁令を破る向こう見ずの行為に走るのではなかろうか? すなわち、エバの逸脱の究極の根本動機は、知(信仰)の問題ではなく、情(愛)の問題だと考えなければならないのではなかろうか? そこで、
②原罪とは、エバと神との間の愛よりも、ルシファーとの間の愛のほうがもっと強かったために生じたものであったと考えなければならない。
さらに副次的なものとしては、次のような手掛かりを挙げることができる。
③禁断の木の実を食べた直後のことについて、創世記には、「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(三・7)とある。なぜ「腰に巻いた」のであろう。これはいちじくの葉で隠したその部分で罪を犯したということを意味するのではなかろうか? 現に、ヨブ記には、「わたしがアダムのように自分の罪を隠し、咎(とが)を胸の内に秘めていたことは、決してない」(三一・33、新共同訳)とあり、アダムの隠していたところが「罪」だったということが自明の理のように認められている。
④「善悪を知る木」の実のことを普通、禁断の木の実という。禁断の木の実とは不倫の性愛、非正常な性愛(同性愛など)、未成年の性愛など、何か問題のある不健全な性愛のことを意味する。
⑤「知る」という言葉は、原語のヘブライ語でも日本語でも、男女の性的関係の意味でも使われる言葉である。
⑥天使の犯した犯罪についても、ユダの手紙に、「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています」(7、新共同訳)と、その犯罪が淫行(いんこう)であったことが明記されている。
⑦創世記には、「主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(二・9)とあり、「善悪を知る木」が園の中央に、「命の木」の相対的立場にはえさせられたと明記されている。
⑧二人が腰を巻いた「いちじく」は漢字で「無花果」と書く。これは、実だと思って食べる部分が実は花の集まりなので、一見花が咲かずに実ができるように見えるところからついた表記であろう。これは、“花(人格完成)無くして果(子供)をつくる”ということを暗示しているように思われる。さらに、
⑨ルシファーは男性である。
以上、列挙したこれらの考察や示唆を総合して考えると、ルシファーが女をそそのかしたのは、何よりも強い愛――性愛によってであり、それだからこそ、神と人間との間の強い一体関係さえも破壊させられてしまったのだということが見えてくる。
では、「善悪を知る木」というのは何を指すのか。園(宇宙)の中央に、「命の木」と並んでその相対的立場に生えさせられたというところから、「命の木」は万物の霊長である人間の男性、「善悪を知る木」とは女性の比喩だと見れば、すべてが矛盾なく解けてくることに気づく。
すなわち、原罪の発端は、ルシファーと女(エバ)との間の不倫の性愛であり、その愛が高じて遂に許されぬ一線を越えてしまったのが、神に対する決定的犯罪となったのだと、このように解けてくるのである。
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次回は、「神が定めた男女の関係」をお届けします。