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勝共思想入門 29

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第八章 弁証法について

二 弁証法の理想型

 このことから弁証法の理想的な型といえるものを、次のように述べることができます。

 有限なものはすべて(無限なるもの、神についてはいえない)それ自身の中に既に自らを否定するものを含んでいるということ。

 自らの内部にある否定性のために、有限なるものはすべて、自分の中から他のもの(自分に対立し、否定するもの)を生み出すようになるか、あるいは、他のものに変わってしまう。そのことによって、自分自身と、自分の中に生じた他のものとの間に対立が生じてくるようになる。ここで重要なことは、このほかのものは、生じてくるものであって、初めからあるというものではないということ。

 生じた対立物は、お互いに相手なくして、自分が存在できない関係となっている。
 互いに否定し合いながら、互いに相手を肯定(認めていること)し合っているということ。

 対立物は必ず一致するということ・これはあるものの中から、それを否定する他のものが生じてきて、その生じてきた他のものをもう一度否定することによって成し遂げられる。これを「否定の否定」という。ここでの統一は、和解するということであって、対するものの一方が他方を無視したり、撲滅打倒したりすることを意味するのではない。

 ここでの和解・統一は、この状態でいつまでも続くというものではない。必ずそれ自身の中に再び否定的なものが生じてきて、対立し合い、和解・統一するということは無限に続く。

 以上のような内容のものとして、伝統的な弁証法を見ることができるのです。

三 形而上学とは何か

 共産主義者によって、資本家の手先と、悪者扱いされた「形而上学」とはどのようなものなのでしょうか。もちろん、神の実在を信じる人はみな、形而上学的考え方をもっているといえるのです。

 まず、言葉のもっている意味から考えてみようと思います。「形而上」というのは「かたちあるものの上」という意味として理解することができます。さて、形あるものは、同じ馬、犬といってもそれぞれみな違います。各個体ごとにそれぞれ特殊な面があるのです。

 しかも、現実に存在して形あるものは、いつまでもその形を保ち続けているのではなく、いつか崩れ変化してゆきます。

 「形而上」ということは、このように、一つ一つ違う特殊な点を扱うのではなく、また、変化していく現実のものを扱うのではなく、その「上」にあるものを扱うという意味となります。例えば、「馬とは何か」とか、「犬とは何か」といった問いに対しての答えにあたる、ものの本質とか、実体、永遠なもの、不変のものを扱うという意味を持っているのです。それを、形の上という比職的な表現をしているといえます。

 哲学の歴史から見れば、どちらかといえば形而上学の流れのほうが主流を形成していたと見ることができるでしょう。「神」も当然、形而上学としての哲学の中の根本的概念となります。

 共産主義者が、形而上学を支配階級の搾取・抑圧を助けるイデオロギーであるとする理由は、これまでの説明でお分かりいただいたと思います。つまり、形而上学は、ものの本質とか、実体とかいう不変のもの、永遠のものを追求しようとするものですから、一つの社会を見るにおいてもそのごとくであって、例えば資本主義社会を見る場合も、それを永遠のもの、不変のものと見るようになるというのです。それは、結果として資本家による労働者の搾取抑圧を、正当化するものとならざるを得ないというのです。

 共産主義者からすれば、今の資本主義社会を変革しなければならないと考えるのですから、それを裏づける哲学・思想も当然、すべてのものが変化・発展していき、永遠・不変のものなどないという立場のものでなければならないのです。

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 次回は、「共産主義の弁証法」をお届けします。

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