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スマホで立ち読み Vol.22
『日はまた昇る 蘇る日本』4

統一思想研究院・編著

(光言社・『日はまた昇る 蘇る日本』〈2012101日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第22弾、『日はまた昇る 蘇る日本』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
 1960年代から80年代にかけて日本と世界の共産化の危機を救ったのは、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の勝共運動だった! 本書では文総裁の歩みを紹介し、共産主義の理論の批判と代案を提示するとともに統一思想の観点から見た日本再生のビジョンを提唱します。

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Ⅰ 共産主義の終焉と天一国時代の到来

(3)救世主の救出

 文先生が興南(フンナム)収容所において重労働に従事させられている間、1950625日、朝鮮戦争が勃発しました。北朝鮮の突然の侵攻によって、韓国軍は釜山(プサン)まで後退せざるを得ませんでした。この非常事態に対処しようとして、マッカーサーに率いられた国連軍が仁川(インチョン)に上陸して、攻勢に転じ、興南にも押し寄せてきました。国連軍による爆撃が激しくなると、看守は囚人を次々に処刑し始めました。次は文先生の処刑の順番という間一髪のとき、興南肥料工場に国連軍による激しい爆撃が加えられたのです。ついに文先生は監獄から解放されました。

 爆撃が激しくなると、看守は囚人を処刑し始めました。囚人の番号を呼んで、4日分の食料とシャベルを持たせて、外に連れ出しました。他の監獄に移送されるものと思って呼ばれて出て行った彼らは、山に連れて行かれ、自分の墓穴を掘らされた後、そのまま殺されてしまいました。量刑の重い囚人が先に呼ばれていました。じっと数えてみると、次の日は私の番でした。ところが、まさにその時、処刑を翌日に控えた1950年10月13日、38度線を越えた韓国軍と国連軍が興南に押し上がってきたのです。米空軍のB29爆撃機は14日、興南肥料工場とその付近一帯に激しい爆撃を加え、興南全体が火の海になるほど梅雨の雨のように爆弾を降り注ぎました。危険を察知した看守たちは、その前に逃げ出していました。ついに私たちを囲んでいた監獄の門が開かれました。夜中の2時ごろ、私は他の囚人たちと共に、堂々と歩いて興南監獄を出てきました。(文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』116)

 国連軍を率いていたのはマッカーサー元帥でした。その時、自由世界がマッカーサー元帥の強い意志を実践していたならば、北朝鮮軍と参戦してきた中国人民軍を完全に撃退することができ、韓半島の分断の悲劇はなく、アジア全域での共産主義の膨張はなかったのです。しかし、トルーマン米大統領は強硬なマッカーサーを解任し、結局、韓国動乱は、38度線での停戦に追い込まれてしまいました。しかしマッカーサーは救世主である文先生を救出するという重大な使命を全うしたのです。

 マッカーサー元帥は、韓国動乱を窮極の勝利に導き、アジアにおける共産主義の問題を完全に解決する方策が何であるかを正確に知っていました。万一その時、自由世界が彼の忠告に従ってマッカーサー元帥の意志を実践していたならば、今日の両断された韓国の悲劇はなかったでしょうし、アジア全域での共産主義の膨張と無限の犠牲はなかったでしょう。自由世界に汚点を残したベトナム戦争の敗戦もなかったでしょう。

 仁川上陸作戦に続いて国連軍が北へ北へと押し寄せてきた時に、切羽詰まった共産主義者たちは、収監した政治思想犯たちを処刑し始めました。私の最後の瞬間が近づいてきました。ところが、私が引き出されて処刑されるその数時間前に、私は劇的にも国連軍の助けで解放されたのです。「仁川」というこの映画は、私がマッカーサー元帥に対してする感謝の表示だとも言えるのです。(文鮮明 1982.10.5, ソウル)(第5回世界言論人会議創設者メッセージ「韓半島は世界の縮小体」)

 19501014日、解放された文先生は、足の折れた朴正華(パク・チョンファ)氏を乗せた自転車を引きながら、時には背負いながら、弟子の金元弼(キム・ウォンピル)氏と共に、歩いて南下していきました。38度線を越える時、文先生は神様に、「私が必ず北韓を共産主義から解放します」と祈りを捧げました。共産主義の圧政のもとで、人々がどんなに呻き苦しんでいるか、身にしみて分かっていた文先生でした。

 私が38度線を越えながら神様に祈祷したことがあります。この悪党たちを私の手で捕まえて片づける前に死んではならないので、私が私の故郷、私の祖国を再び訪ねて、神様に勝利の讃揚をお返しできるその日まで私を生かしてくださいと祈祷したのです。そうするために、韓国を経て、アジアを経て、世界を経て、この怨讐の金日成(キム・イルソン)に至ろうと誓いもしました。(文鮮明 1981.1.26)(『神様の摂理から見た南北統一』372)

 私が38度線を越えながら祈祷したことは簡単です。「神様、心配しないでください。北韓まで私が統一します」。祈祷は瞬間にしましたけれども、一生を投入して実践してもいまだにできていません。しかし、いずれにしても故郷に帰らなければなりません。そうしなければ、み旨が成し遂げられません。(文鮮明 1987.11.1,)(『神様の摂理から見た南北統一』372)

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 次回は、「冷戦時代の到来とその延長」をお届けします。お楽しみに!



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