2023.03.05 13:00
神の沈黙と救い 16
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第三章 失楽園での神の沈黙
一 最初の沈黙
先の第二章四で、人格神論の立場について説明した。神は人間を「自分のかたちに創造された」(創世記一・27)ので、人間に神と同じ自由(別の言葉でいえば、小型の全知全能性)を与えられた。この人間の自由を守るために、神は人間の行動に、善悪のいかんにかかわらず、原則として一切干渉しない。すなわち、沈黙を守らざるを得ないと述べた。このことについてもっと厳密に考えてみることにしよう。
このことは、まず第一に、神は全知全能であられても必ずしも何でもできるというわけではないということである。すなわち、ご自身で立てられた原則に反することはなし得ない。なぜなら、その原則を破れば、自己矛盾をきたし、絶対の神ではなくなってしまうからである。人間に自由(小型の全知全能性)をいったん与えたからには、人間の自由に干渉しないという原則が絶対となり、そのような絶対の原則を神も絶対に破らないということにおいて、神は絶対の存在となられるのである。
第二に、人間の行動の「善悪のいかんにかかわらず」ということを述べたが、その「善悪」とはどういうことであろう。善とは、神のため(すなわち全体のため)、他人のためを思ってなす行動であり、その認識に錯誤がなければ、善なる行動は神の意志と矛盾しない。それゆえ、善なる行動に対して沈黙することは、神に苦痛を感じさせないであろう。
それに対して、悪とは、神(全体)がどうなろうと、他人がどうなろうと、それにはお構いなしに、自分や自分の仲間のやりたいことを押し通すことだといえよう。この意味での悪は往々神の意志に反するので、悪なる行動に対して沈黙することは、情を有する神に苦痛を生じさせるであろう。苦痛を感じず、むしろ喜びを感じる時に人間の自由に干渉しないことは、何も失うものがないので当然のことだといえるが、苦痛を感じてもなお、神は人間に干渉されないのであろうか?
もしそうだとしたら、今述べたような、人間の自由に対しては不干渉という原則の絶対性を保持するという単なる形式的な理由だけによるものか、それともまだほかに重大な理由があるのであろうか?
人間の自由が無制約なものかどうか、人間の悪なる行動に対しても神が干渉されないのかどうかということについては、創世記に次のように書かれている。
「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園(エデンの園)のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」(二・16〜17)。
ここで、「どの木からでも心のままに取って食べてよろしい」とあるのが、神が人間に対して自由を与えるということの宣言である。同時に、「善悪を知る木」から食べるという一つの例外を除いては、何をどうやってもすべてそれは善であるという意味でもある。
それに対して、「善悪を知る木」から取って食べることは悪であって、それはしてはならない。食べれば必ず死ぬという。ところで、食べてはならないと警告するのは、食べようと思えば食べられるからで、これは唯一の悪ではあるが、食べることは自由だと見なければならない。自由だが、食べれば必ず「死ぬ」恐ろしいものだというのである。
ここから、人間は善悪のいかんを問わず、何をすることも自由である。しかし、善なることはやっても死なないが、悪なることをやれば死ぬという聖書思想の一番根本的な主張の大筋がつかめてくる。この関係を表にすると、
・善悪を知る木以外から食べる→自由→善→死なない
・善悪を知る木から食べる→自由→悪→死ぬ
となる。
すなわち、まだ造られたばかりの人間にとって、悪となる行為はただ一つ、「善悪を知る木」から食べることだけだったというのである。ただしその悪は、他の悪と並べられるような生易しい悪ではない。他のすべての悪がそこから発生してくる諸悪の根源、猛悪、長い人類歴史を通じていまだにその根本的な治療ができないで困っているという厄介な上にも最高に厄介な悪、そのために「原罪」と呼ばれているものなのである。
それは唯一の悪の根源で、人間がそれに触れさえしなければ、いかなる悪も生じるはずがなかった。この悪に比べれば、殺人すらも物の数ではない。だからこそ神は、食べれば「死ぬ」と言われたのである。しかしそんな極悪なら、「死ぬ」と警告するだけでなく、人間が食べそうになったらその時止めればよかったではないか。そうだれしもが思うところだが、神は一体どうされたであろうか?
周知のように、悪賢いへびが女のところに来て、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と言って誘惑した。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(創世記三・6)。
このように、女も男も何ものにも妨げられることなく、すべての罪悪の根源となるこの実を取って食べている。神はそれに全く干渉しておられないのである。
「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』」(創世記三・8〜9)。
神は何と、「涼しい風の吹くころ」までこの死罪を犯した二人をほうっておかれ、それから「あなたはどこにいるのか」と聞いておられるのである。神は全知全能であられるから、もちろんどこにいるかはご存じであられるが、まずやりたいようにやらせ、その後で事の善悪を問うためにこう呼びかけておられるのだ。
神はすべての罪悪の根源である最悪の行動(原罪)さえも制止されることなく、自由にやらせておいてから善後策を考えられた。それぐらいであるから、乳飲み子をほうり投げて銃剣で受けて見せたところで全く干渉されないのである。かくして神は、人間の自由に対しては、その行動の善悪のいかんにかかわらず、終始一貫沈黙を守られるということが、聖書の思想から確認できた。
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次回は、「失楽園での出来事」をお届けします。