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神の沈黙と救い 15

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第二章 神の沈黙を考える四つの立場
四 人格神論

死後、来世で公平な報いがある

 イエスはこの終末・再臨における最後の審判については明確に説かれたが、終末が到来するまでの来世についてはあまり語られなかったようである。しかし、次のような示唆がある。

 「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である」(マタイ五・29)。

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ七・21)。

 また、ラザロと金持ちの例え話も大変参考になる。

 ある金持ちがいて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの玄関の前に、ラザロという全身にでき物のある貧しい人が座り、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうとしていた。ところが、ラザロは死ぬと、「アブラハムのふところ」という、イエスの来臨以前には一番高かった霊界に上げられ、金持ちは死ぬと、地獄に落とされた。そこで、金持ちはアブラハムに向かって、自分は今火炎の中で苦しんでいる。どうかラザロをつかわして、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてくださいと訴える。すると、アブラハムは、「あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたち(アブラハムのふところにいる者)とあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」(ルカ一六・2526)と言ったという。

 すなわち、肉体のあるうちに罪を犯した者、金持ちで施しもせずぜいたくに遊び暮らしていた者は地獄に落とされ、神の御旨を行った者、飢えやできもので苦しんだ者は、天国やアブラハムのふところで幸せに暮らす。地獄と天国とは互いに交通することもできない。これで、この世での悪行と善行が公平に報いられ、貧富の差から来る不公平が帳消しにされるというのである。

 すなわち、神が沈黙しておられるのは地上においてだけで、来世では抑制しておられた全知全能を発揮され、信賞必罰、因果応報――いっさいの不公平はなくなるというのが第三の見方である。

 この見方は、西欧の中世の農民や、アメリカの黒人奴隷に対して、階級差別に不平を言わせないために悪用された。こういう悪用は今後とも避けなければならないが、だからといって必ずしも間違いだとはいえまい。

再臨のとき大きく飛躍する

 さらに、先に述べた二項目(「終末に善悪が清算される」「死後、来世で公平な報いがある」)を結合したような見方がある。すなわち、生涯を終えた時に、来世での霊界の高さが決まるが、さらに終末、再臨の時に、地上の人間を助けることによって霊界の高いところに大きく飛躍できるチャンスがあるというものである。

 その光景がマタイによる福音書には、次のように描写されている。

 十字架上で「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」(マタイ二七・5053)。

 これは極めて劇的で、しかも理解しがたいところであるが、墓から出てきたのが霊であって、霊的復活であると見ると、これらの記述に合点がいく。すなわち、この霊たちはイエスが復活されることを予知し、聖なる都エルサレムの多くの人々の前に霊的に現れ、地上人が復活するイエスについて行くことを勧めたものであろう。

 このように、霊界においては、メシヤ到来の時は功労を立てて高い霊界に移る千載一遇の好機なので、こぞって神の摂理に協力するというのである。この見方からすると、メシヤ再臨の時が次の最大の好機なのである。

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 次回は、「最初の沈黙」をお届けします。