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神の沈黙と救い 14

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第二章 神の沈黙を考える四つの立場
四 人格神論

 そこで最後に残るのは、聖書に描かれているような、全知全能で愛そのものの神が存在するが、何か特別の重大な理由があって、人間のやることに干渉しないとする見方であろう。このような神は、人間の知情意に当たるすべての人格的要素を備えているので、普通、人格神論と名付けられる。

 では、その特別の理由とは何であろう。

人間の自由を保持するため

 まず神の「沈黙」の普遍的理由として、聖書の人間観を根拠として挙げれば、創世記に「神は自分のかたちに人を創造された」(一・27)と書かれている。このように、神は人間を神とそっくりに造られたので、神に自由があるように、人間にも自由を与えなければならない。この自由を犯さないために、神は全知全能ではあられるが、人間の行動に、善悪のいかんにかかわらず、原則としていっさい干渉しない、すなわち、沈黙を保たれる。これが神の沈黙の第一の普遍的理由であると思われる。この、神が人間の自由に干渉しないということについては、第三章で詳しくいろいろな角度から考えてみることにする。

終末(最後の審判の時)に善悪が清算される

 しかし、人間の自由を重んじるとはいっても、人のためになることを多くした者(善人)と、人を苦しめることを多くした者(悪人)とを同じに待遇したのでは不公平ではないかという疑問が残るであろう。

 この問題について、イエスは次のように言われたとされている。

 「人の子(キリスト)が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき(終末)、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう」(マタイ二五・3133)。

 この時、右に置かれる人とは、貧しくだれも顧みないような「最も小さい者」に、キリストに対するように尽くした者で、そのような人々は天国を受け継ぐ。左に置かれる人とは、こういう「最も小さい者」に何もしてやらず、虐待した者で、そういう者は「悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火」に入る。こうして「彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入る」(マタイ二五・46)。

 その終末を迎えるまでは、「毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ」(マタイ一三・2930)と言いつけると、イエスは比喩(ひゆ)でいわれた。

 またその終末がごく間近だと思ったパウロは、「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった」(ローマ三・2526)と述べた。

 このように、時が満ちて最後の審判が行われる終末に、信賞必罰の裁きが下るまで、神は沈黙を守るというのである。

 これをまとめれば、神は人間に善悪を問わず自由を与えたので、人間の個々の行動にいちいち干渉せず沈黙しておられるが、時が満ちれば、その行動に対して公平に報いるということになる。

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 次回は、「死後、来世で公平な報いがある」をお届けします。