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勝共思想入門 27

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第七章 唯物論について

四 共産主義唯物論の真のねらい

 共産主義の思想の出発はマルクス。そして、マルクスにとっての唯物論とは、物質とは何かといった内容を本格的に問おうとする体系的なものではなく、史的唯物論としての唯物論であったことについては、最初に述べたごとくです。つまり、社会を唯物論的に説明しようとするためのものであったのです。

 この意味では、レーニンによって物質の概念が拡大されたというより、初めからマルクスによってとらえられていたものが、確認されたといったほうが正しいのでしょう。

 社会を唯物論的に説明するというのは、「土台と上部構造」という考え方のことです。

 マルクスは、経済の仕組み、社会体制、すなわち生産関係を「土台」と呼びました。そして土台が物質であるというのです。さらに、物質により精神が生み出されるという唯物論の立場から、土台により発生し、かたちづくられていくのが「上部構造」としての、諸見解、諸機関であり、宗教、政治、倫理、道徳、法律などであり、それを実行する機関であるとしました。

 この考え方は、革命理論へと結びつけられていきます。つまり、社会の改善、改革は、土台を変えることなしにはあり得ないということです。教育を改革して社会をよくしようというようなことは、マルクス・レーニン主義者にとってみれば、資本主義的社会秩序の強化につながることであって、とんでもないことなのです。

 土台を変えるということは、物質的な経済の仕組みを変えるということですから、物質的力(暴力)によるしかなく、それは、暴力革命が最も基本的な型となるというのです。

 共産主義唯物論にとって、物質とは何かというような掘り下げは、ある意味ではどうでもよいことなのであり、革命こそ、社会発展の手段であることを述べられればよいのです。

五 科学による唯物論の崩壊

 皮肉なことですが、共産主義者が自らの思想を「科学的社会主義」と呼び、科学によって唯物論の立場は揺るぎないものとなると考えていたのですが、逆に、今は、科学が唯物論の立場を突き崩そうとしているのです。レーニンが、物質とは何かについて新たに定義し直さなければならなくなったのもそうであり、これからもずっと、科学の成果におびえ続けなければならない運命につきまとわれていくことでしょう。

 哲学者アーサー・バルファー(18481930)という人は、「われわれは今や、物質について、あまりにも多くのことを知り過ぎたので、単なる唯物論者になることはできない」といいましたが、こういった傾向は、今後さらに強まる一方でしょう。

 素粒子物理学者・福田信之先生の言葉から、現代科学がどこまできていて、どういった問題点が残っているかを知ることができます。

 「現代の物質観では、物理的空間は無限の物質の宝庫である、というのが自然観として定着しています。……上手にエネルギーを与えると、物理的真空は振動を始めるのです。……真空そのものが媒体をもっているのです。それが振動を始めると、振動の層がいろいろな素粒子に対応するのです。……たとえば電子とか……。すなわち真空の奏でる音楽そのものが物質なのだということになります。……根源にはエネルギーがありますが、空気だって音楽を出すにはバイオリンをひくとかエネルギーが必要です。……

 最も根源的にわからない点は、素粒子はいろいろでて来るけれども、きまったものしかでてこないということです。……ドレミファソ……と音楽にあるように、きまったものしかでてこないのです。……“どうして”それしかでて来ないのかというのはわからないのです。」(『統一思想と勝共理論』より)

 科学の成果が、物質の内部構造をより深く解明していけばいくほど、“なぜ”そうなのかという疑問点が明確になってくることが示されています。科学はその意味で、「“なぜか”」の説明のために必要な、現象としての背後の存在(第一原因者、神)を浮かび上がらせてくれるものといえるでしょう。

 科学こそ、最高の神の讃美者となることでしょう。革命のための理論としての唯物論は、崩壊せざるを得ないのです。

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 次回は、「弁証法について」をお届けします。

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