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勝共思想入門 26

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第七章 唯物論について

二 唯物論と唯心論

 ここで、世界において物質的なものが根源的、一次的であり、精神的なものは、派生的、第二次的と見るのが「唯物論」です。

 これに対し、何らかの精神的なものが根源的であり、物質的なものはそれから派生し、生み出されたものとみなす考え方が「唯心論」です。この二つの考え方の流れは、ときにはぶつかり合い、ときには並行に流れたり、またあるときには、一方が他方をのみ込んだりしながら今日に至りました。

 マルクス以来、多くの共産主義者は、科学が、唯物論の正しさを証明してくれるものと信じている傾向が強いようです。そうであればこそ、マルクスは自分の考えを「“科学”的社会主義」と呼んだのでしょう。

 しかし、事はそんなに簡単ではありませんでした。科学の発達が、唯物論の根拠と考えていたものを失わせてしまうようなことがでてきたからです。

三 物質とは何か

 マルクス、エンゲルスは、物質とは、これ以上分けることのできない細かい粒子(原子)から成っているものと考え、粒子説の考え方に立っていました。当時、すなわち19世紀の科学の発達の成果を背景にして、そのように述べていたのです。

 しかし、20世紀になって、原子構造内部が解明されるようになり、さらにアインシュタイン(18791955 独)らにより、物質が一定の条件のもとで、エネルギーに変換されることが主張され、それが様々な形で実証されてくるようになりました。

 このような科学の進歩に影響されて、「物質は消滅する」と主張する哲学者も出てきました。そして、科学的社会主義を主張する人々の中にもそのような考えを支持するものも出てきたのです。唯物論的な考え方の一番の基礎になっているものが崩れてしまったと考えた人もいたのです。

 このような共産主義者たちの物質観の混乱を救ったのは、レーニンでした。

 レーニンの批判は、混乱している共産主義者たちの視野の狭さに向けられました。「物理学的物質観」に固執するのでこのような混乱に引きずり込まれたのだ。だいいち物理学的物質観では、自然現象しか説明できないではないか。もっと社会現象までも含む考え方をもたなければならない。哲学とはそもそも、自然も社会も含む世界全体に、統一的な説明ができるものでなければならないはずだというのです。

 レーニンは自らの物質観を、「哲学的物質観」と名づけ、次のように述べたのです。

 「物質は、客観的実在を表示するための哲学的カテゴリーであり、この客観的実在は人間に、その感覚において与えられており、それはわれわれの感覚によって模写され、撮影され、反映されるものであって、感覚からは独立して存在するものである」(『唯物論と経験批判論』新日本文庫185186ページ)。

 この定義によれば、人間の意識(見たり、聞いたりする作用、機能など)から離れてあるもので、私たちの感覚でとらえることができるものはすべて物質といえるというのです。

 共産主義者はこの定義によって、揺るぎない物質観をもつようになったといいました。

 もう、どんなに科学が発達して新しい発見がなされようと安心だというのです。しかしここまで定義を広げてしまったのですから、そんなことは当たり前のことであり、こっけいにさえ感じられます。

 このレーニンの新しい定義によって、社会現象であるデモ、ストなども物質と見られるようになりました。そして、マルクスの初めからの考え方と結びつけられ、生産関係(=社会体制、経済の仕組み、正確には、生産と生産手段を中心とした人間関係)や、階級が物質と説明され直されました。

 それにしても、デモ、ストまで物質とは、ちょっと理解しかねます。いずれも、強い人間の意志がなければできないからです。

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 次回は、「共産主義唯物論の真のねらい/科学による唯物論の崩壊」をお届けします。

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