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スマホで立ち読み Vol.22
『日はまた昇る 蘇る日本』2

統一思想研究院・編著

(光言社・『日はまた昇る 蘇る日本』〈2012101日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第22弾、『日はまた昇る 蘇る日本』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
 1960年代から80年代にかけて日本と世界の共産化の危機を救ったのは、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の勝共運動だった! 本書では文総裁の歩みを紹介し、共産主義の理論の批判と代案を提示するとともに統一思想の観点から見た日本再生のビジョンを提唱します。

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Ⅰ 共産主義の終焉と天一国時代の到来

冷戦に終止符を打つ決定的役割を果たした統一思想
 世界の火薬庫と言われる中東でも、レバレンド・ムーンの平和思想に励まされ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、新しい次元の平和的対話を行っています。東西間の冷戦に終止符を打つ決定的役割を果たしたのも、レバレンド・ムーンの「統一思想」でした。私の祖国、韓半島統一のための実質的背後作業も今、レバレンド・ムーンの主導のもとで急速に進行しています。(文鮮明 2006.8.31)(「神様の理想家庭と平和理想世界天国」『平和神経』38)

1)イエス様との出会いと人類救済の準備

 文鮮明先生は、1920年の16日(陰暦)に、韓半島の平安北道の定州に生まれました。文少年は幼い時から、好奇心・探究心が人一倍旺盛で、野山を駆け巡っていました。当時、西欧国家がアジアまでも支配下におこうとする中、韓国は日本の支配下にありました。韓民族のような弱小民族の悲劇は、人類歴史を通じて常に繰り返されてきたことでした。このような問題をいかにして解決したらよいのか、世界の平和はいかにしたら実現できるのか、文少年は聖書を読み、神に祈るようになりました。

 1935417日、猫頭山(ミョドゥサン)で祈っていると文少年の霊眼が突然開けて、イエス・キリストが現れました。イエス様は深淵な、驚くべきことをたくさん語られました。そして文少年に、「神様は苦しんでいる人類を御覧になり、悲しんでおられます。私が地上で果たせなかった使命を引き受けて、いまだに悩み苦しんでいる人類を救ってください」と告げられました。

 イエス様に会ったのち、文少年の人生は完全に変わりました。文先生は次のように語っています。

 イエス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。イエス様の悲しい顔が私の胸中に烙印のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ちあふれました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。イエス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。(文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』65〜66)

 文鮮明先生は、19414月から19439月までの2年半の期間を日本に留学(早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科)されました。人類を救うという壮大な使命を果たすためには、当時、目覚ましい勢いで世界に進出していた日本を知らなければならず、また韓国を日本から独立させるためにも、日本に行く必要があると考えられたからです。日本に留学する時の心境を文先生は次のように語っています。

 京城商工実務学校を終え、1941年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山(プサン)に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套を被っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫れ上がっていました。植民統治下で呻吟する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木から涙がぽろぽろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛哭する山河に向かって、私は約束しました。「故国の山河よ、泣かないで待っていてくれ。必ず祖国光復を胸に抱いて帰ってくるからな」。

 釜山港から関釜(かんぷ)連絡船に乗り込んだのは4月1日の午前2時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。(文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』78)


1941年41日、関釜連絡船「昌慶丸」で日本へ

 文先生は、日本留学の間、メシヤとしての使命を果たされるために、人類救済の原理の解明に全力を尽くされたのをはじめ、様々な体験や研究をされました。

早稲田大学第3代総長の高田早苗像のまえで。後列右から3人目が文先生

早稲田高等工学校電気工学科卒業アルバムより

 ソウルへ帰った文先生は、キリスト教会に通いながら、真理探究を継続していきました。そして、ついに「神と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛を御覧になって、悲しんでいらっしゃる」という悟りと共に、宇宙のあらゆる秘密が解かれたのです。

 1945815日、韓国民が待ちに待った解放の日が来ました。その日、韓国人は解放の喜びで万歳を叫んでいましたが、日本人は悲しみに打ちひしがれていました。文先生は、全人類が万歳を叫ぶ日を迎えなければならないと決意し、祈祷しておられたのです。

 私は、万歳を叫べませんでした。人々はみな、解放されたと喜んでいるのに、手を挙げたくても手が上がらないのです。韓国民族が、8・15解放後にうれしいと踊りを踊りましたが、先生はそれを眺めて、小部屋で涙を流しながら祈祷しました。……1945年は、大韓民国においては解放を迎えた喜ばしい年ですが、日本においては戦争に負けた悲しい年です。それゆえ世界的に共に喜ぶことができる日、このような時をもたなければならないのです。(文鮮明『真の御父母様の生涯路程②』60〜61)

出獄した独立闘志たちと共に歓呼する西大門刑務所前の群衆(1945.8.16)(『真の御父母様の生涯路程②』61

 この日、神の新しい摂理が出発しました。文先生は、解明された新しい真理をもって、人類救済の道を出発されました。

 私は天の召命を受けた16歳の時から、10年間をこの問題の解決のため単身真理を探求した結果が、今日皆様が「統一原理」「神主義」また「統一思想」(頭翼思想)と呼ぶところの新しい真理の出現であります。そして私は、この真理を1945年8月15日、韓国が日本から解放された直後に、この地上で初めて発表したのです。(文鮮明 1992.8.24, ソウル)(『ファミリー』1992.12, 36)

 第二次世界大戦におけるキリスト教連合国家の世界的勝利のもと、神から与えられた新しい真理を携えて、歩み始められた文先生をキリスト教の指導者たちが受け入れていたならば、1945年から7年間で、創造本然の世界が実現されていたのです。そして文先生が40歳になられる、その後の7年間で神の国が地上に実現していたと言われます。

7年でできた創造本然の世界
 その時は、アメリカを中心としてキリスト教が世界を支配し、歴史始まって以来キリスト教文化圏が世界を代表することのできる第二次世界大戦の直後だったのです。これは歴史上の千載一遇の好機でした。キリスト教が世界を支配することのできる時だったのです。……この時、レバレンド・ムーンはイエス・キリストの使命にあり、キリスト教は2千年前のユダヤ教の立場にありました。そしてアメリカはローマの立場にあり、韓国はイスラエルの立場にありました。これらはすべて神側になっていたのです。一つの側に立っていたのです。神側にいたのです。……もしメシヤを認め一体化するならば、これらが一度に7年間ですべての路程が達成される、そういう状況にありました。先生が40歳になる前に世界の復帰は終わっていたかもしれないのです。(文鮮明 1984.5.20, ニューヨーク)(『ファミリー』1984.9, 30〜31)

 再び来られるメシヤは、昔、旧約時代に雲に乗って来ると言われていたように、雲に乗って来るのではありません。イエス様当時と全く同じだというのです。新約時代は旧約時代の延長だからです。ですから、反対を受けるようになっているのです。結局、私はイエス様が十字架につけられたのと同じなのです。もしも私とキリスト教が一つになっていたならば、地上天国、天上天国は既に自動的にできているのです。新約時代が終わる1945年から1952年までの7年間で、世界は一つになっていました。(文鮮明 1993.1.10, ニューヨーク)(『ファミリー』1993.6, 51)

 第二次大戦後に、枢軸国と連合国が闘い、勝利した基盤の上に先生が上がっていけば、世界は1952年以降に完全に定着し、7年後の先生が40歳になる日には、王権をもって治めることができたのです。(文鮮明 2004.10.14, 韓国・清平)(『祝福家庭』㉟ 2004, 41)

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 次回は、「キリスト教の不信」をお届けします。お楽しみに!



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