2023.02.15 17:00
スマホで立ち読み Vol.21
『み言に学ぶ統一原理【前編】』9
スマホで立ち読み第21弾、『み言に学ぶ統一原理【前編】』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
本書は文鮮明(ムン・ソンミョン)先生が統一原理について語られた内容を『原理講論』と同じ章構成でまとめたみ言集です。
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総序について
宗教と科学
宗教は、人間の心と体を統一して救援するための修理工場として生じたものです。ですから、宗教が教示する教理には、その方法が示されています。それは何でしょうか。心を中心として体を打つ、というものです。心と体が闘っているので、宗教というものは、心を中心として体を治めようとするのです。体を弱くするということです。それで、断食せよ、眠りを克服せよ、独身生活をせよ、と言うのです。体が好むことをすべて拒否します。そして、愛というものをすべて淫乱なもの、悪いものとして扱ってきたのです。愛の問題で天下が滅びたからです。(199-348、1990.2.21)
人は心と体という、それぞれ異なる二つの存在をもっています。これが互いに一つにならなければなりません。互いが完全に一つになるためには、完全に同じにならなければなりません。完全に知らなければならないということです。心が知らず、体が知らない、これではいけません。これが必ず一つにならなければならないのです。
このように考えるとき、今まで科学が外的な世界の知識を発展させてきたのであり、宗教が内的な世界の知識を発展させたのですが、これが分かれているのです。これが一つになるためには、科学者も宗教を知らなければならず、宗教者も科学を知らなければなりません。(104-9、1979.3.25)
私たち人間を見てみれば、体があり、心があります。体は外的であり、心は内的です。横的に見れば、人間は外的、内的にできています。神様も同じです。どのようになっているかというと、神様も体と同じものがあるということです。また、心と同じものがあるというのです。それで、人間はこの地上において一つになり、神様は霊的な面で一つになります。科学が横的な面で出会えば、宗教は縦的な面で出会わなければならないということです。そのように考えるとき、科学を通しても神様を求めることができ、宗教を通しても神様を求めることができるのです。(104-9、1979.3.25)
16世紀の後半に宗教と科学が分かれましたが、終末である今日に至ると、再び一つの目的を達成できる帰一の段階に越えてきています。ここで先に科学が統一の形態をとっていますが、これはなぜかというと、アダムが完全な人として創造されるまでには、まず体が造られ、あとから生気が吹き入れられたように、創造の原則がそのようになっているからです。
今日の宗教と科学は、互いに対立する立場におかれていますが、原則はそうではないというのです。終末には必ず体を造ったあとに生気を吹き入れ、神様の代わりに立ち得るアダムを造られたのと同じように、この歴史の終末的な現象も、そのように帰一されなければならないのです。(3-106、1957.10.6)
人間が科学を発達させた動機には、様々なものがありますが、究極的にはあくまでも、人類共同の福利、すなわち人類共同の平和と繁栄を実現することにあると見て間違いないでしょう。しかし、科学の領域が細分化されて、その方法がより一層分析主義に流れたために、人類共同の福利という価値の方向とは少し異なる方向に発展してきました。
人間が科学に期待したことは、人類共同の福利だったのであり、主体である人間の幸福でしたが、これに対して、科学が挙げた成果は、対象としての物質的環境の改善、また生活手段の開発だったのではないかというのです。つまり人間が望んだことは、主体の福利でしたが、科学が成就したことは、対象の改善だったのです。したがって、人間の要望と科学の成就(成果)との不一致を見るとき、人間の主体性の喪失がもたらされているといえます。
科学では、生活環境と手段の改善、開発のような対象の問題解決に力を注ぎながら、同時に、主体性の問題も共に扱うのが望ましいことです。物質的および分析的な方法とともに、精神的および統一的な方法を併用し、さらには、人間の尊厳性を肯定しながら、一定の道徳的価値観の土台の上で科学が扱われなければなりません。人間の尊厳性が尊重される科学的風土が造成されるとき、公害のような不安をもたらす問題は、未然に防止できるのです。(69-236、1973.11.26)
人間を含めすべてのものは、質量的な側面と形相的な側面を共に備えた統一的存在です。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体の統一体であり、植物は生命と物質の統一体であり、そして無機物は作用と物質の統一体です。したがって、人間の生活を向上させるにおいても、肉身の物質的生活だけを改善させていくのでは、完全な幸福は実現されません。物質的、精神的、両面の生活を統一的に同時に改善していくとき、初めて本当の幸福が到来するようになるのです。(65-257、1972.11.26)
今日では、すべてのものが限界に至りました。政治なら政治、哲学なら哲学、宗教なら宗教、すべてが限界に至っているのです。今まで宗教は宗教としての使命を苦労しながら遂行してきましたが、究極的に探し立てなければならなかった一つの基準は、いまだに紹介できずにいます。政治もそうであり、哲学もそうであり、文化的な歴史路程もやはりそうです。
しかし、いずれにせよ今のこの時は、全宇宙が一つの目的を通じた統一の理念を中心として動いていかなければならない時です。宇宙を創造された創造主がいらっしゃる以上、それは必然的なことなので、創造主の理念に通じるようになるそのときには、今まで信じてきたその正道、今まであがめてきたそのいかなる文化的な条件をもってしても、そのような問題を打開しようにも、到底打開し得ないのです。
言い換えれば、今まで長い歴史過程を通して人間の良心を中心として、また体を中心として、そのような問題を解決しようとしましたが、完全に解決することはできませんでした。つまり、そのような人間の究極的問題を解決しようとすれば、今までの宗教、今までの哲学、今までの科学では到底できないということです。
ですから、いくら20世紀の科学文明を誇っている現代人だとしても、新しい宗教の理念を探し出すことのできる新しい科学、哲学それ自体にとどまることのない新しい理念の哲学、今までのすべての宗教がもつことのできなかった新しい理念をもつ宗教を探し求めなければなりません。(3-72、1957.9.29)
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次回は、「新しい真理の使命」をお届けします。お楽しみに!