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勝共思想入門 23

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第六章 国家について

一 共産主義思想の国家観

 日本の国家意識の低さの原因はいくつか考えられます。戦前、「滅私奉公」というスローガンのもとで、国家のために多くの人たちが戦争に駆り立てられました。そして、敗戦。その後、戦勝国による敗戦国を裁く東京裁判により、日本が悪であったと断罪されたことから、日本の戦前のものは方向性など、すべてが悪いものとされてしまったのです。それゆえ、愛国心、公共精神までも、後ろめたさを感じるようなものとして扱われることとなってしまったのです。これは行き過ぎであったと言わなければなりません。この結果であるというが、国家意識の低さの一原因として挙げられるのです。

 もう一つの大きな原因は、共産主義の国家観が、知らず知らずのうちに〔マルクス・レーニン主義の思想に基づく教職員組合である日教組(日本教職員組合)によって〕教育されてきたということです。

 レーニンが、国家の発生や、その役割について多く述べていることはよく知られています。その代表的な書物が『国家と革命』という本です。しかし、そのレーニン自身は、これらの考え方をもつようになったきっかけとして、エンゲルスの著作『家族・私有財産および国家の起源』を挙げています。それで、私たちも共産主義の国家観を知るために、この本から少し長くなりますが、関係のある部分を抜き書きしてみます。

 「ある特定の歴史時代に、ある特定の国の人間がそのもとで生活を営む社会的諸制度は、二種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって、制約される。労働がまだ未発達であればあるほど、労働の生産物の量が、したがってまた社会の富が乏しければ乏しいほど、社会制度はますます圧倒的に血縁の紐帯(ちゅうたい)に支配されるものとしてあらわれる。しかし、このような血縁の紐帯にもとづく社会の編成のもとで、労働の生産性はますます発展し、それにつれて、私的所有と交換、富の差異、他人の労働力を利用する可能性が、それとともにまた階級対立の基礎が、発展する。……血縁団体に立脚する古い社会は、新たに発展してきた社会諸階級の衝突のなかで打ち砕かれる。それに代わって、国家に総括された新しい社会が現れるが、この国家の下部単位は、もはや血縁団体ではなく、地縁団体である。この社会では、家庭の制度はまったく所有の制度によって支配され、これまでの文書にしるされた歴史全体の内容をなしているあの階級対立と階級闘争とが、いまや自由に展開される。……だから、国家はけっして外から社会に押しつけられた権力ではない。……それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決不可能な矛盾に絡みこまれ、自分がはらいのける力のない、和解できない対立物に分裂したことの告白である。ところでこれらの対立物が、すなわち相争う経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争によって自分自身と社会を消耗させることのないようにする為、外見上社会の上に立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力が必要になった。そして、社会からうまれながら社会の上に立ち、社会に対してみずからをますます疎外してゆくこの権力が、国家である」(マルクス・エンゲルス全集第21巻より)。

 聞き慣れず、使い慣れていない言葉が多く出てきたので、難しく思われたかもしれませんが、いいたいことはこうです。

 エンゲルスが、国家とその発生や役割について述べるとき、既に前提があります。それは、同じ著作の中に現れてくるのですが、国家の特徴として四つ挙げているものがそれです。

 第一に、国民を地域によって区分すること、第二に、一つの「公的強制力」= 武装した人間の集団をもつこと、第三に、租税を取り立てること、最後に、官吏の存在です。このことを念頭に置きながら考えてみることにしましょう。

 社会の生産力がまだまだ低いときは、血縁で結ばれた社会としての、氏族社会であった。しかし、生産力が大きくなるにつれ、作ったものが余り始め、それはついに、他人のために作らざるを得なくなる。つまり、交換を前提として物を生産するという方式に次第に変わっていったというのです。当然、関係をもつ社会が血縁の次元のみでなく、大きく広がることになります。

 さらに、私的な所有が始まり、持てる者と持たざる者の差が生まれ、ある人が、他の人の労働力を利用するという方式もとられるようになってきて、階級が発生したというのです。つまり、支配する階級と、支配される階級の発生というものです。その次元は、生産力の発達とともにますます大きくなり、また、その対立も比例して大きくなるというのです。そして、ついに、その社会、既に血縁団体から地縁団体にまで拡大した社会自身では、どうしても解決できないものになり、ついに、その社会の上に立って、この対立をしずめ秩序を保つための「公的な権力=強制力」が必要となったというのです。この社会によって生み出されて、社会の上に立つようになった一つの権力機関が「国家」であるというのです。

 次に、その国家はだれのものかという意味ある質問を投げかけ、次のように述べています。

 「国家は階級対立を要請しておく必要から生まれたものであるから、それは通例、最も勢力のある、経済的に支配する階級の国家である。この階級は、国家を用具として政治的にも支配する階級となり、こうして、被抑圧階級を抑圧し搾取する為の新しい手段を手に入れる」(マルクス・エンゲルス全集第21巻より)。

 国家はついに、支配階級が、被支配階級を搾取し、抑圧するための権力機関として、突き詰めれば、悪なるものとして位置づけられてしまうのです。

 ここから理想的な社会は、階級対立のない社会、共産主義社会ですから、階級対立のゆえに生まれたとされる国家という権力機関のない社会となるというのです。つまり国家死滅論です。

 このように共産主義思想の立場からすると、国家とは悪なるものであるのです。ということは、愛国心などはもってのほかなのです。

 しかし、社会主義国ソ連において、愛国心を促す教育が行われていました。これはいったいどういうことなのでしょう。それは、資本主義国の国家権力は悪、社会主義国の国家権力は善(一種の必要悪といえる)であるという考えからなのです。

 共産主義思想から見れば、社会主義というのは過渡期の社会であって、理想形態ではないのです。社会主義の段階では国家が残存している労働者が支配階級となっている社会のことです。持っている国家権力で、国内の反動勢力を抑圧、壊滅させなければならないのです。それが終わってのち、初めて共産主義社会となるのであって、資本主義から一足飛びに共産主義社会に行くことはないというのです。

 さらに、他に帝国主義国が存在する限り、社会主義の防衛のため、国家権力としての軍事力は必要となるというのです。それゆえに、理想としての共産主義社会が実現するのは、国内の反動分子が一掃された時、さらに、世界から帝国主義国が一掃された時、全世界が共産主義化された時であるということになります。

 このように、共産主義の国家観からは、民主主義と共産主義の共存はあり得ないこと、したがってデタントといわれる緊張緩和路線はまやかしであることが分かるのです。

 日教組の教師によって、こういった考え方を背景に教育されれば、この資本主義社会の国家というのは、一部の支配階級のものであって悪いものだと考えるようになり、国を愛する気持ちなど起きようはずもないのです。

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 次回は、「共産主義的国家観の批判と代案」をお届けします。

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