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神の沈黙と救い 10

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第二章 神の沈黙を考える四つの立場
三 情神論

イエスの十字架に対する神の沈黙

 日本人にあまりなじみはないが、キリスト教ほど不思議な宗教は類例がない。外面的に見れば、イエス・キリストその人をはじめとして、初期に懸命に活動した使徒その他の伝道指導者はほとんど惨めな最期を遂げている。彼らは十字架で亡くなったイエスが間もなく再臨すると信じ、その希望に燃えて熱心に伝道したが、再臨もまたなかった。外面的にだけ見ると、日本の切支丹弾圧の時と同様、神はずっと沈黙し続け、伝道者たちの労に報いようともしなかったかのように見える。

 実際その後も、新しい国々にキリスト教を伝えようとすると、往々迫害が起こり、その際決まったようにいつも、神が沈黙し、そのため屈辱的とも見える殉教が必要となった。

 その原点はまず十字架上で始まる。

 「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」――これは、キリストが十字架上で大声で叫ばれたとされる言葉で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(マルコ一五・34)。この言葉は「マルコ」と呼ばれる最も早い時期に書かれたと思われる福音書に載っているものであること、イエスが言いそうもないことを言ったとされていることなどから、イエスが実際にそう叫ばれたという性格が非常に高いもの、と聖書学者が評価しているものである。

 『沈黙』にもこう述べられている。

 モキチやイチゾウが杭にしばられて、沈んでいった雨の海。小舟を追うガルペの黒い頭がやがて力尽きて小さな木片のように漂っていた海。その小舟から垂直に次々と簀巻(すまき)の体が落下していった海。海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、その時も神は海の上でただ頑(かたくな)に黙りつづけていた。「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」……突然、この声が鉛色の海に記憶と一緒に司祭の胸を突きあげてきた。エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ。金曜日の六時、この声は遍く闇になった空にむかって十字架の上から響いたが、司祭はそれを長い間、あの人の祈りの言葉と考え、決して神の沈黙への恐怖から出たものだとは思ってはいなかった。

 実際、イエスまでが本当に、十字架上で神に向かって、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのだとしたら、そこには一体いかなる天の事情があったのか。――この点に、今まで述べた無神論、理神論の理解とは全く違った解釈の余地が残されているのではあるまいか? その点を、後で聖書を手がかりにして解明してみることにしよう。

 なお、『沈黙』に書かれている「あの人の祈りの言葉」というのは、詩篇22篇の「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」に始まる77行に及ぶ長い祈りのことである。イエスはこの祈りをされたのだとある学者たちは見るのであるが、十字架上の激痛の中で果たしてそのような悠長なことをされたのであろうか? またイエスはこの言葉を「大声で」「叫ばれた」とあり、詩篇のような「捨てられるのですか」という訴えるような口調ではなく、「お見捨てになったのですか」と過去形で既成事実として、全く予期しないことが起こったというような激しい調子でいわれているのである。

 それは、いつも沈黙しておられる神が、この時にもその沈黙を守っておられる(ロドリゴが体験した神はこのようなものであった)というのでさえなく、いつもは沈黙しておられない神(イエスと霊的に一体であり、一問一答しておられた神)が、一番肝心な十字架の苦しみの絶頂で突如沈黙された。これは先入観を入れずに見れば、イエスとの霊的なきずなを切って、捨ててしまわれたもののようにさえ見られるのである。

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 次回は、「無惨だった使徒たちの最期」をお届けします。