2023.01.15 13:00
神の沈黙と救い 9
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。
25年以上も前に書かれた本ですが、読者の皆さんにとって、必ずや学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第二章 神の沈黙を考える四つの立場
二 理神論
情的存在を説明できない理神論
しかし、強い人間原理から合理的に推論できるのは、まさに全知全能の驚異的な能力を有する無形の神の存在だけであって、それが同時に愛の神、人格的な神であるかどうかについては何もいえない。愛の神だと仮定しても強い人間原理と矛盾することはないが、それが愛の神でもあると断定することはできない。
また、強い人間原理から合理的に推論できるのは、自然の諸法則の根源、あるいは創造者としての神の存在だけであり、その自然法則の外にあって自然に働きかける神という概念はそこからは出てこない。それは善に報い、悪を懲らしめるというかたちで自然に干渉してくる超自然的な神では全くない。強い人間原理の「神」は、人間の行動の善悪に関心をもたない神である。もっと正確にいえば、その提唱者カーターは、人間が発生し生存し続けるための自然的環境に着目してこの原理を提示したのであって、人間の行動の善悪の問題には関心をもっておらず、したがってこの原理にそうした要素を持ち込まなかったのである。
ところで、これだけですべてのことが説明できるであろうか?
もし全知全能ではあるが情の全くない神であったなら、全宇宙はコンピュータのような味気ない世界となっただろう。太陽系の九つの惑星はそれぞれ強い個性をもち、土星の輪などはまさしく芸術品であるが、こんなデリケートなものは生じてこなかったろう。
さらに山河、海、湖、植物、動物などの個性と美しさはどうであろう。これは人間が生涯かけて束になってかかわっても及ばないほどのものである。象の鼻の長さ、きりんの首の長さ、うさぎの耳の長さ、エリマキトカゲの滑稽な動作などには、ユーモアがあふれている。特に女性の体にはあらゆる美が総結集されているという感じで、したがって画家を志す者はみな裸体を勉強する。孔雀(くじゃく)や深海魚の色の競演の華麗さはどうであろう。
この美というものも単なる偶然からは生じ得ない。美的センスを必要とするものであるが、これが人工ならぬ自然のうちに、ぜいたくといっても良いほどふんだんにあり、ほんの瞬間に消え去る雪の結晶でさえ、あれほど美しいのを見ると、宇宙の根元のうちに情のあることは否定できなくなる。
「しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくして下さらないはずがあろうか」(マタイ六・29〜30)とイエスは言っている。
神の激しい情の放出が直接に証明できるものとしては、ノアの洪水の事例がある。
「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這(は)うものも、空の鳥までも。わたしは、これを造ったことを悔いる』と言われた」(創世記六・6〜7)
「悔いる」というのは情である。コンピュータは機械が目標どおりに作動していないことをフィードバックするであろうが、だからといって機械全体を破壊してしまうだろうか?
この40日40夜の大洪水については、1929年、C・L・ウーリー博士に率いられた探検隊が、ウルの小丘の基底近くで人間の居住を示すいくつかの層の下に、厚さ2.5メートルの遺物のまざっていない堅い水成粘土の層を発見した。その下には別の都市の廃墟があった。このように厚い水成粘土の層は、長期にわたる大洪水のような水の氾濫(はんらん)がなければできないという。洪水層の下の文化と上の文化との間にはあまりにも大きい差があり、ウーリー博士は、それは「歴史の突然ですさまじい破滅」のあったことを示すという。
同様の水成粘土層がキシュ、ファラ(ノアの居住地と推定される)、ニネベなどにもあり、この洪水がきわめて広範にわたったものであることを示している。
さらに、箱舟がとどまったアララテ山上の氷河に箱舟と見られる巨大な舟の残骸が見つかり、写真も撮られて詳しく調査されている。
また、バビロニアその他、この近辺にいた民族の歴史として洪水の物語が書き残されているものが多い。
これらの物的証拠から見て、ノアの箱舟の物語が単なる神話であると見ることはできない。
最後に、神にかたどって造られたという人間自体に豊かな感情があることは、自分を観察してみればよく分かる。この感情、特に愛はどこから来たものであろうか? 我々は自分で自分を創造したものではなく、性、容姿、性格など何一つ自分で選択したものではなく、それゆえ、自分の原因となるものがなければならないが、原因のうちにないものが結果に出てくるわけはない。この点からも、この宇宙の根源――神には、情的要素があると考えざるを得ない。
祈りや瞑想(めいそう)においては、自分一人ではなく、それに特に情的に応えてくれる存在を実感する。強い時には、自分の体全体が震動するほど感動する。
これらの事象や体験を説明できないというところに、理神論の限界があるといわなければならない。
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次回は、「イエスの十字架に対する神の沈黙」をお届けします。