2023.01.16 12:00
愛の勝利者ヤコブ 17
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
父と子の信仰の勝利③
自分が死ぬ以上につらい試練から突如解放されたアブラハムは、全身の力が一時に抜けていくような気がして、思わずその場にがっくりとひざをついた。
「お父さん、あそこ」
とイサクが首をもたげていうのを聞いて、アブラハムは初めて我に返り、イサクが視線を向けている方向を見渡すと、後ろの方に角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいることに気がついた。
「お父さんが言ったとおりだったね。神様はちゃんと羊を用意しておいてくださっていたんだね」
何という素直な心をもったよい子なのだろう。アブラハムはじいんと目がしらが熱くなるのを覚えた。アブラハムは直ちに手慣れた手つきで羊を捕まえて縛り、イサクをほどいて下に降りられるようにした。こうして二人は神の愛と恵みが暖かく自分たちを包むのを感じながら、羊をイサクの代わりに燔祭(はんさい)として供え、その前にひざまずいて感謝の祈りをささげたのであった。
このことがあって以後、アブラハムはこの地をアドナイ・エレ(「主は見たもう」あるいは「主は備えたもう」の意)と呼ぶようになった(創世記22・14)。
多くの聖書物語の作者や注解者が指摘しているように、このイサク献祭は、アブラハム一人の信仰でなしえたものではなかった。イサクが神と父とを心から信じてすべてを任せたことにもよるのである。例えば、このことについて山室軍平は、「当時イサクもはや25歳の青年であったから、彼に抵抗しようと思えば、十分その力をもっていたが、しかしながら、彼も父の心中をよく理解し、そのなすがままにまかせたのは、けなげなことといわねばならぬ」と述べている。
当時イサクが25歳だったという根拠がどこにあるのか調べてみたが、よく分からなかった。聖書の記録から受ける印象では、イサクはもっとずっと幼い感じである。そういっても、ともかくたきぎを背負い、なぜいけにえの小羊がないのかと質問しているくらいだから、十分な分別を持ち、力も相当にある年齢に達していたことは確かだ。にもかかわらず、父のなすがままに任せていたのは、神と父とを全く信じ切っていたからだとしか考えられない。
したがって『原理講論』に、「このように、み旨に対して物事の道理が分別できる程度の年齢になっていたイサクが、もしも、燔祭のために自分を殺そうとする父親に反抗したならば、神はそのイサク献祭を受けたはずがないのである。ゆえに、アブラハムの忠誠と、それに劣らないイサクの忠誠とが合致して、イサク献祭に成功し、サタンを分立することができたと見なければならない」とあるのは十分納得のいくところである。
ともかくこのアブラハム、イサクの親子双方の信仰を賞賛されて、神は次のように再度の祝福を与えられるのである。
「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする……」(創世記22・16~17)と。
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次回は、「イサクの嫁選び①」をお届けします。