2023.01.08 17:00
日本人のこころ 70
慈円『愚管抄』
ジャーナリスト 高嶋 久
日本初の歴史書
慈円は平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧で、和歌に優れ、38歳で天台座主になり、その後、4度も天台座主になります。父は摂政関白の藤原忠通、母は藤原仲光女加賀で、摂政関白の九条兼実(かねざね)は同母兄にあたります。当時、公家の男子が出世する道は役人になるか僧侶になるかでした。
『愚管抄(ぐかんしょう)』は鎌倉時代初めに慈円が書いたわが国最古の歴史書で、朝廷と鎌倉幕府の緊張が高まった承久(じょうきゅう)2年(1220)の頃に成立し、承久の乱の後に修正されています。愚管は私見の謙譲語で、『徒然草』に、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえたと書かれたような、気さくな人柄だったのでしょう。
有名な一節は「保元元年(1156)7月2日、鳥羽上皇がお亡くなりになってのち、日本国はじまって以来の反乱ともいうべき事件が起こって、それ以後は武者(むさ)の世になってしまったのである」で、次いで「いま書いているこの書物はこのことが起こるに至った経過とその理由を明らかにすることを第一の眼目としている」とあります。出来事の記述だけでなく、その因果関係を考察したもので、つまり歴史観が記されているのです。
慈円は後鳥羽上皇の身近な相談役として、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場しています。緊張関係にあった朝廷と幕府が軍事力で衝突したのが1221年の承久の乱で、その引き金になったのが3代将軍源実朝(さねとも)の暗殺です。
実朝暗殺事件
建保7年(1219年)1月27日、実朝は右大臣就任の拝賀のため参詣した鶴岡八幡宮で、2代将軍源頼家の遺児・公暁(こうぎょう)に暗殺されました。4歳にして父を亡くした善哉(ぜんざい)は12歳で鶴岡八幡宮別当のもとで出家し、京都で受戒して公暁と名乗り、18歳で鎌倉に戻ると、北条政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任します。事件当時は裏山で千日参篭の最中でした。
父・頼家が北条氏の刺客によって暗殺されたのを知らされた公暁は、それを「実朝による陰謀」と誤解し、実朝を殺して自ら将軍になろうとしたようです。衝撃的な事件なので、背後にそそのかした人物がいたのではないか、との推測が歴史家などにより繰り返されてきました。疑われたのは執権北条義時と公暁の乳母夫・三浦義村です。
鎌倉幕府の正史ともいえる『吾妻鏡』では、積雪の夕方に催された右大臣昇任の拝賀式に、実朝の護衛として付き従っていたのが北条義時ですが、実朝が鶴岡八幡宮の楼門に入った直後、「急に具合が悪くなられ、御剣を源仲章(なかあきら)に譲り、退去され、…小町の御邸宅に帰られた」と書かれています。
その理由は「楼門のそばに白い犬の幻影を見た」からで、体調を崩した義時は源仲章に役目を譲り、帰宅してしまったのです。要人の警備責任者が担当部署を離れるという、考えられない事態でした。義時が見た白い犬は、彼が建立した大倉薬師に祀っていた十二神将の一人・戌(いぬ)神将で、堂を抜け出し、義時に警告しに来たと説明されています。今の時代では信じられないことですが、当時の人々はそんな神秘的な世界に暮らしていたのです。
『吾妻鏡』では、夜中になり、神拝を終え、八幡宮から退出してきた時、「鶴岡別当の公暁が、石段の側に忍び寄り、剣を取って丞相(実朝)を殺害した」と続きます。28歳の若さで実朝は公暁によって刺殺されてしまったのです。公暁は、義時から剣を託された源仲章も殺害し、「父の仇を討った」と名乗りを上げます。
義時は、突然の体調不良によって命拾いしたのが怪しまれ、実朝の後鳥羽上皇への急接近を警戒していたことから、正史の『吾妻鏡』が北条義時黒幕説を示唆しているかのようにも読めます。
これに対して『愚管抄』では、実朝暗殺を目撃した公卿から聞き取りをした慈円が、詳しい記録を残しています。それによると、奉幣を終えた実朝に、「法師の姿をした者が走り寄って来て、長い裾を踏みつけると、太刀で実朝の頭に斬りかかった。実朝が転倒したところ、その首を討って斬り落とした」とあり、最初の太刀を振り下ろすとき、公暁が「親の仇はこのように討つのだ」と口走ったと記されているのは『吾妻鏡』と同じで、暗殺の動機は父が殺されたことへの怨恨だと分かります。
源仲章の殺され方は『吾妻鏡』と異なり、「実朝の前で松明を振る源仲章が、義時だと誤認して斬り殺された」とあります。そんな間違いが起きた理由を、「義時は太刀を持ち、実朝のそばにいたが、『中門に止まれ』と命令されたので、留まっていたのである」と書いています。つまり、義時は実朝に「中門のほうにいるよう」と命じられたので、本宮に入らず、代わりに仲章が松明を持って前を歩いていたため、義時と間違われて殺されたというのです。
三浦義村黒幕説について『愚管抄』では、実朝の暗殺後、公暁は義村に使いを送り、「今となれば、私が大将軍である。そちらに行こう」と告げたとあり、『吾妻鏡』でも「我こそが幕府の長である」と宣言したとありますので大筋は同じです。さて、大河ドラマではどう描かれるでしょうか。