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「性解放理論」を超えて(66)

クィア理論~②バトラーへの批判と「統一思想」の見解

 「統一思想」すなわち「神主義」「頭翼思想」によって生きるのか、神の言(ことば)を否定する思想を選択するのか…。
 「『性解放理論』を超えて」を毎週月曜日(予定)にお届けします。

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大谷明史・著

(光言社・刊『「性解放理論」を超えて』より)

六 フェミニズムを超えて
(三)クィア理論

1)バトラー

②バトラーへの批判と「統一思想」の見解
 バトラーの主張は「はじめに言説ありき」ということですが、言説の背後に主体を認めません。しかし主体のない言説などあり得るでしょうか。

 ヨハネ福音書の冒頭に「はじめに言(ことば)ありき」とありますが、そこには神という主体がいて、言が発せられたのです。神という主体のない言(ロゴス)はあり得ません。同様に、人間という主体なくして言説が存在するということはあり得ないのです。虚空の中に言が存在しているというのでしょうか。これは、全ては物質から生じたという「唯物論」ならぬ「唯言論」とも言うべきものです。「統一思想」から言えば、「神は愛なり」、そして愛から言が生まれたのです。つまり、神は愛であり、愛によって天地創造の構想またはシナリオとしての言が生まれたのです。

 バトラーはまた、行為の背後に行為者は存在せずと言いますが、行為者のない行為などあり得ません。バトラーはさらに、法は文化によって押しつけられるものであり、そのような法によって男性気質や女性気質が生み出されると言いますが、そうではありません。男と女は愛の実現のために、神によって造られたのです。つまり愛の完成のために男は男らしく、女は女らしく造られたのです。愛には、愛が真なる愛となるための道しるべが必要でした。したがって言には「愛の道」としての法(規範)が伴っていたのです。

 バトラーは、ジェンダーというカテゴリーを「流動化させ、攪乱(かくらん)、混乱させ、増殖させることによって、ジェンダー・トラブルを起こしつづける(※20)」と主張しました。バトラーのこのような主張は、正にポストフェミニズムの行き着くところです。このような主張は、デリダによる言語の攪乱と軌を一にするものであり、さらにはダーウィニズムの突然変異による種の攪乱と軌を一にするものです。「統一思想」の観点から言えば、神は生物を種類に従って造られたように、男と女も明確な差異をもって造られたのです。

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※20 ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(73

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 次回は、「クィア理論~③セジウィック」をお届けします。


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