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神の沈黙と救い 6

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。
 25年以上も前に書かれた本ですが、読者の皆さんにとって、必ずや学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第二章 神の沈黙を考える四つの立場
一 無神論

神否定への誘惑

 まず無神論の立場から見れば、神の「沈黙」は次のように説明される。

 すなわち、神は沈黙しているのではなく、もともと存在していないということをこれらの状況は示している。キリストは神ではなく人間であり、人間性の最も高くて美しい愛の極限を生きられた方であるがゆえに、後世の人々に崇拝され、信仰の対象となっているにすぎない、とする考えである。

 『沈黙』のロドリゴの事例では、神の沈黙という体験は、まず沈黙する神と、愛と犠牲的な精神のゆえに踏絵を踏むことを許すキリストとの分裂に導いた。その究極は、沈黙する神への徹底した不信、ついには一時、神は存在しないのではないかという疑問にまで向かわしめた。

 モキチとイチゾウが水磔(すいたく)に付され、片眼の長吉が首を斬(き)られ、ガルペがこも巻きにされて水中に投じられる信徒を助けようとして溺死(できし)するのを見たロドリゴは、ひとり長い間、格子窓と壁とに対しているうち、十字架上で「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と絶叫されるイエスの声と、それらの殉教の光景とが重なって映り、こう考えるようになった。

 「神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声をだして笑った」。

 実際、神は目に見えないのだから、祈っても瞑想(めいそう)しても何も応えるものがなければ、無神論に陥るのは当然だといえる。

 また、きわめて非人間的で残酷な人間のしわざに神が干渉せず、懲らしめもされない時に、深刻な無神論が生まれるということは事実である。

 ドストエーフスキイの『カラマーゾフの兄弟』には、前にも述べたように無神論者となった次男イワンが信仰の深いアリョーシャに、全く無垢(むく)な子供が恐ろしい苦しみをなめる実例を数多く例示する場面がある。

 ここでは、まだ悪のひとかけらもない、悪意さえもたない全く無垢な幼児に、残虐の限りを尽くす者がいるのに、愛にして全知全能の神がいるならば、それに対してなぜ何もせずに沈黙しているのかということが問われている。それは、沈黙しているのではなく、そもそもそのような神が存在していないことを証明するのではなかろうか?――イワンの無神論はこういうタイプの懐疑が原因となって生じたものである。

 この種の無神論は、日本の文化土壌では何の疑問もなく受け入れられやすいようである。それはもともと聖書に書かれているような、この宇宙の創造主であり、その意味で宇宙を超越してその外にある神という概念が一般に普及していないからである。

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 次回は、「無神論を否定する現代科学」をお届けします。