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神の沈黙と救い 5

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。
 25年以上も前に書かれた本ですが、読者の皆さんにとって、必ずや学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第二章 神の沈黙を考える四つの立場

考えられる四つの立場

 耐えがたい苦難や拷問の中で、神を心から信じる者が必死で祈り、さらには叫び、うめいても、神が沈黙したままでいることがあるのはなぜか? また、何も罪を犯していない小さな子供が虐待されているのに、神はなぜそれを見過ごすのか?

 こういう問いが出てくるのは、聖書が説くような、全知全能で愛そのものの神が存在しているということが前提になっているからだ。神が愛であるならなぜこのような苦しみ、訴えを放置しておかれるのか? 神が全能ならこの絶望的な状況に助けの手を伸ばすことはいくらでもできるはずなのに、実際はそうでないので、そのギャップに不審の念を抱くのである。

 この問いに対する最も単純な答えは、全知全能で愛なる神がいるのに沈黙しているのではなく、もともとそのような神は存在しないのだという「無神論」である。

 しかしこれだけが答えのすべてではない。神が全知全能であったとしても、感情を全くもたないのであれば、泣いてもわめいても答えられないのは当然である。科学者が実際の観測からその存在を想定するのはこのような神で、これを「理神論」と一般に呼んでいる。

 さらにその反対も考えられる。神の愛がとことん深くても無能力であるために沈黙せざるを得ないという場合がそうである。遠藤周作の『沈黙』におけるキリスト観はまさにそうで、愛の極限を生きながらも無能であるために十字架で死ぬことになるのである。このような神の概念はこれまでの哲学や神学にないようなので、理神論の逆という意味で、「情神論」と名付けることにしよう。

 最後に来るのが、神は全知全能で愛そのものであるが、何か特別な理由があって、人間のすることに干渉しない――すなわち、沈黙しておられるという神観である。この理由には二つあって、一つは超歴史的に、いつどの状況にも普遍的に当てはまる理由であり、いま一つはキリストの十字架という歴史的にただ一度の事件の場合にだけ当てはまる特殊な理由である。

 このように、全知全能・愛と、人間の有している心的機能――知情意のすべてを備えておられる神は、聖書に記述されている神のように人格をもたれる神にほかならない。このような神を考えるのは、「人格神論」である。

 本章では、この四つの見方の根拠と問題点を総当たり的に検討してみることにしよう。

 以上を分かりやすくまとめると以下のようになる。

①無神論
 神は沈黙しているのではなく、もともと存在していないとする考え。

②理神論
 全知全能だが愛のない神が存在し、愛の欠如のゆえにこういう事態に全く手を出さない。

③情神論
 愛そのものだが能力のない神が存在し、能力の欠如のゆえにこういう事態に対処できない。

④人格神論
 全知全能かつ愛そのものである神が存在するが、何らかの重大な理由でこういう事態に全く干渉しない。

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 次回は、「神否定への誘惑」をお届けします。