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神の沈黙と救い 4

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。
 25年以上も前に書かれた本ですが、読者の皆さんにとって、必ずや学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第一章 神の沈黙
二 ドストエーフスキイにおける神の「沈黙」

 文学作品の中で神の沈黙を取り上げている人は、遠藤周作のほかにもいろいろある。その例として、ドストエーフスキイの『カラマーゾフの兄弟』を挙げてみよう(引用は岩波文庫 米川正夫訳)。

なぜ子供が苦しむのか?

 これは、淫蕩(いんとう)無残なフョードル・カラマーゾフの3兄弟――激情にまかせ放縦無頼の日々を送るドミートリイ(同時代のロシアを象徴)、智・誇り・貪婪(どんらん)な生活欲をもつ無神論者イワン(西欧を象徴)、無私の愛に満ちた敬虔純真なアリョーシャ(ロシアの国民的要素をもって全人類を抱擁すべき未来のロシアを象徴)の3人を中心として、わずか3日間のうちに凝縮して起こる出来事を媒介として、ドストエーフスキイの思想を詳細に展開した一大巨篇である。

 ほかに、イワンの無神論と論証によらず、己の存在をもって粉砕するゾシマ長老、フョードルの血を受けた私生児で下男のスメルヂャコフが重要な人物としてかかわり合ってくる。超大作なので、小説全体の要約は私には不可能。「神の沈黙」と関係のあるところだけを紹介する。

 3人兄弟のうち、ドミートリイは先妻の子、イワンとアリョーシャは後妻の子で、性格や思想はイワンが悪魔的な大否定を目指すのに対して、アリョーシャは人類愛を志向し、全く正反対である。問題の3日間の2日目の午後、イワンは広場の料理屋でアリョーシャに会いたいと伝言し、互いに理解し合いたいからといって、自分の世界観を語り出す。

 イワンは神を承認するが、神の創った世界を承認することができないという。それは、まだ知恵の実を食べていない全く罪のない子供が恐ろしい苦しみをすることがあるからだ。例えば、トルコ人は、母親の胎内から匕首(あいくち)をもって子供をえぐり出したり、乳飲み子を空へ放り上げ、母親の目の前でそれを銃剣で受けて見せる。中には、赤ん坊を笑わせて赤ん坊がピストルを取ろうとした瞬間に引き金をおろして、その小さな頭をめちゃめちゃにしてしまった者もいる。

 また、スイスで、六つばかりの時、羊飼いにもらわれていったリシャールという私生児が、何一つ教育されず、ろくろく着物も着せてもらえず、食べ物ももらえなかった。そこで成人してからは泥棒をするようになり、ついにある老人を殺して持ち物を剥ぎ、死刑を宣告された。さて牢に入ると、キリスト教組合の会員などが大勢来て、読み書きを教え、聖書の講義を始め、やがて自分の罪を自覚し、自分から裁判所へ手紙を書いて、神様が自分の心を照らして至福を授けてくださったと言った。そのうちジュネーヴ中が騒ぎ出し、刑場でみんなが接吻(せっぷん)して祝福した後、ギロチンでいともやさしく首をはね落とした。これが美談とされていることに、イワンは偽善と残酷さを感じ取っている。

 ロシアでは、自分の子を虐待して快楽を感じるという例が多い。五つになる女の子を教養ある両親が、ただ無性にぶつ、たたく、けるという拷問にかけ、それにも飽きて、夜中に大便を知らせなかったからといって、もらした大便をその子の顔に塗りつけたり、無理やりに食べさせたりしたあげく、極寒の時節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じ込めたりした。その母親はその子供のうめき声を聞きながら平気で寝ている。「まだ自分の身に生じていることを完全に理解することの出来ないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳(こぶし)を固めながら、痙攣(けいれん)に引きむしられたように胸を叩いたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりする」。

 さらにイワンは、召使いの九つになる男の子が誤まって愛犬の足をくじいたのを将軍が知って翌朝早く狩の支度をして召使いたちを馬に乗せ、その先頭に男の子の母親を乗せ、子供の着物を脱がせてその前を走らす。そのため猟犬たちは見る間に子供をずたずたに引き裂いて殺してしまったという例などを挙げる。

 イワンは、知恵の木の実を食べていないこういう無垢(むく)な幼児がこのような不合理な苦しみにさらされるのが我慢できない。「すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和を贖(つぐな)うためだとしても、何のために子供がそこへ引き合いに出されるのだ」。「どういうわけで子供までが苦痛をもって調和を贖わなけりゃならないのか」。

 子供はどうせ大きくなって悪いことをするさ、という者もいるかもしれないが、犬で狩り立てられた九つの子供は死んでしまった。もはやその母親にも、その子供が味わった苦痛に対してあの暴君を許してやる権利はない。自分が母親として味わった無量の苦痛だけを許してやるがいい。こういって、イワンは、お互いが許し合って調和に至るというキリスト教道徳に反対する。

 「僕は調和などほしくない。つまり、人類に対する愛のためにほしくないというのだ。僕はむしろ贖われざる苦悶をもって終始したい」。

 それに対してアリョーシャは、「すべての者に代って、自分で自分の血を流した」ほうが、「すべてのことに対して、すべての人を赦すことが出来る」。この人を基礎としてだれをも犠牲としない「人類の運命の塔」が築かれているといい、その問題の解決がイエス・キリストにおいて成就されていると主張する。

 ここでイエスが出てきたことをきっかけとして、イワンはイエスが悪魔に試みられて、パンより自由を重んじ、奇跡や権力を退けたことを批判する、有名な『大審問官』の劇詩を披露する。これは深い思想なので、ここで手短に紹介することはできない。

 この子供の不当な受難に関しては、イワンはこれをもって調和のための贖(あがな)いとすることはできないし、受難をもたらした相手を許す権利をもつ者はない。したがって、このような不条理をもたらせる世界を承認せず、この点で神の存在を認めない。

 さて神が存在しないとすれば、「すべてのことが許されている」ということになると、イワンは主張する。この結論だけを聞いて、私生児で下男でてんかん持ちのスメルヂャコフは、こういう境遇に自分を生んだ父フョードルを殺してしまい、思いも寄らぬ事の展開にイワンは愕然(がくぜん)とするのである。

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 次回は、「神の沈黙を考える四つの立場」をお届けします。