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神の沈黙と救い 3

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。
 25年以上も前に書かれた本ですが、読者の皆さんにとって、必ずや学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

第一章 神の沈黙
一 遠藤周作の『沈黙』

踏絵を踏む司祭

 この『沈黙』の中で、遠藤周作は、信徒がいかなる残虐な拷問や刑に処されても全く沈黙して答えない神を描いている。

 死に切るまで一週間もかかるような水磔(すいたく)の刑に処されても、司祭が転ばねばこもに巻いた百姓たちを海の中に沈めると言われても、穴吊りにされて転ぶと何度も言っている百姓たちまでも吊り放しにすると通告されても……。その神はまた、祈っても、叫んでも、うめいていても、百姓の首が斬り落とされても、全く応えなかった。

 この神のかたくなな沈黙のため、とうとうフェレイラにおいては、神とキリストとが分離してしまった。フェレイラは自分が三日間穴吊りにされても、神を裏切る言葉を言わなかった。しかし穴に逆さに吊された五人の信徒の息絶え絶えの声を一晩中、耳にして、「もう主を讃えることができなくなった」と、同じ試練にさらされたロドリゴに告白した。「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。あのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」。

 一方、キリストが自分の立場にあったらどうされただろうと考え、フェレイラは、「たしかに転んだだろう……彼等のために、人々のために、愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」――こう結論づけて、ロドリゴに迫った。

 沈黙し続ける神と、愛のためにすべてを犠牲にして転ぶというキリストとの分裂――これは司祭の立場にとっては恐ろしい精神状況である。「愛のために」と言われれば、司祭の全生涯はこの愛のためにこそささげられるべきものであった。「すべてを犠牲にして」というのは、ただ肉体の犠牲のみにとどまるものではなかった。それよりももっと貴重な、キリスト自身と同じくらい大切なもう一つのものを含んでいる。

 フェレイラはそのことについてさらに鋭く迫る。

 「お前は彼等(穴吊りにされている人々)より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ」。

 こうしてフェレイラは、神とキリストとの間だけでなく、キリストと教会の間まで引き裂いてしまった。しかし教会はもともとはキリストの体であり、あるいは花婿であるキリストと結婚し、キリストと共に世を治めるべき花嫁にたとえられるものなのである(黙示録一九・7〜16)。

 神とキリストと教会とはそれこそ三位一体のようなものであって、これが三つに分裂すれば、すべてが失われてしまう。しかし目前に苦しみあえぐ三人の穴吊りを見ると、ロドリゴには教会までも含めて「すべてを犠牲にする」ことが、キリストの意向であるかのように思えてきてしまうのであった。こうしてロドリゴは「最も大きな愛の行為をやるのだ」と言うフェレイラに励まされて、ついに踏絵を踏むに至るのである。

 「ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいことではないか」。通辞は興奮し、せいていた。

 「形だけ踏めばよいことだ」

 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖(きよ)らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 その後、ロドリゴは転び者としての生活を始めるが、自分は転んでも棄教したのではないとどこまでも思い続ける。それは「主よ、あなただけがご存知です」。「私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている」。自分は「司祭としてのすべての権利を剥脱され、聖職者たちからは恥ずべき汚点のように見なされているかもしれぬ。だがそれがどうした。私の心を裁くのはあの連中たちではなく、主だけなのだ」。

 こうして、教会は意識から切り捨てられ、キリストと神とは再び融合する。

 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」。

 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」。

 ロドリゴは心の中でキリストとこう対話する。さらにロドリゴはこうつぶやく。

 「自分は彼等(聖職者たち)を裏切ってもあの人(キリスト)を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。……私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」と。

 フェレイラは、沈黙する神に怒り、このような場合、キリストだったら踏絵を踏むだろうと思ってそう行動した。しかし、ロドリゴのなかでは、その沈黙が暗に神と一体となっているキリストの行為として見直された。こうしてロドリゴは「沈黙」を「受容」した。このように一貫した神観のもとに、踏絵を踏むという行為において自分はいっそう高い愛でキリストを、人々を愛したのだとさえ思ったのである。

 遠藤周作はこのようにロドリゴに語らせながら、果たしてこう割り切ってしまってよいものか、若干のためらいを見せているようにも思われる。それは、ロドリゴが踏絵に足をかけた時、「鶏が遠くで鳴いた」と書いているからである。これは裏切りの暗示である。

 現に、この前のくだりに、「今夜、お前(ロドリゴ)は転んでいる」と井上筑後守が自信に満ちて予言したことに対して、「まるで、ペトロにむかってあの人(キリスト)が言われたように。『今夜、鶏鳴く前に、汝三度我を否まん』」(210ページ)と遠藤は書いている。これは、クリスチャンならだれでも知っているように、キリストが十字架にかけられようとする時に、一番弟子であるペトロが、キリストの予言どおりキリストを知らないと度言い、その直後に鶏が鳴く(マタイ二六・347475)という聖書の記述を指すものである。

 これを見れば、ロドリゴの行為は、キリストに許されたもののようだが、もしかすると裏切りかもしれないと、含みをもたせたもののように見える。

 『沈黙』では結局、神は、沈黙のうちで苦しんでおられたのであり、神即ちキリストは踏絵を踏むことを許していた。さらに、ユダに「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネ一三・27)と言われたのも、ロドリゴに踏絵を踏むがいいと言ったのと同様の意味(すみやかに裏切りをせよということ)で言ったのだ、とキリストが答えられたことになっている。

 踏絵を踏むことも許す。ユダの裏切りも許す。

 これが神の愛というものなのだろうか?

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 次回は、「ドストエーフスキイにおける神の『沈黙』」をお届けします。