2022.11.27 13:00
神の沈黙と救い 2
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。
25年以上も前に書かれた本ですが、読者の皆さんにとって、必ずや学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。(一部、編集部が加筆・修正)
野村 健二・著
第一章 神の沈黙
一 遠藤周作の『沈黙』
神がもしいるのなら、神を信ずる者が耐えがたい試練を受けている時に、どうして何もせずに沈黙し続けるのか?―こういう問いをとことん追いつめた小説として、かつてブームを呼んだ遠藤周作の『沈黙』がある。
その粗筋は次のようなものである(引用は新潮文庫)。
小説『沈黙』が提示する極限状況
切支丹が徳川幕府によって大弾圧を受け、神の恵みを取り継ぐ司祭たちが絶滅させられたころ、ロドリゴとガルペという二人の司祭が新たに日本に密航してきた。二人は、マカオから長崎まで案内してきたキチジローという転び切支丹の手引きで、長崎のトモギ村と五島の一部落で真夜中にひそかにミサを立て、告悔を聞き、祈りや教えを言い聞かせるという司祭の役割を務めた。
ところが、密告により役人がトモギ村に踏み込み、村の代表として三人が長崎に出頭せよといわれる。そこで三人は踏絵を踏まされるが、その時息が荒くなったのを見て、さらにこの踏絵につばをかけ、聖母は淫売(いんばい)だとののしれと命じられる。それができなかったモキチとイチゾウは、トモギの海岸で水磔(すいたく)の刑に処せられる。これは海中に立てた木柱に縛りつけられ、やがて満ち潮になると水があごのあたりにまで来る。こうして二日も三日もかかって絶命するという残酷なものであった。ロドリゴはこれを見て、神はなぜこうなってまで沈黙し続けるのかと不可解に思う。
この殉教の後、役人たちが山狩りを始めるということを聞き、別々の小舟で、ガルペは平戸に、ロドリゴは前に行った五島の部落に移されることになった。しかし、ロドリゴは逃げ切れず捕えられ、四人の百姓と共に舟と裸馬を乗り継いで長崎まで連れていかれ、ここで司祭を転ばすことの名手と評判の高い井上筑後守の取り調べを受けるようになる。
その途中、舟に乗せられて横瀬浦というかつては切支丹が隆盛をきわめたところがすっかり焼き払われてしまったのを見たロドリゴは、「あなたは何故、すべてを放っておかれたのですか…我々があなたのために作った村さえ、あなたは焼かれるまま放っておいたのか。人々が追い払われる時も、あなたは彼らに勇気を与えず、この闇のようにただ黙っておられたのですか。なぜ。そのなぜかという理由だけでも、教えて下さい」と弱々しくつぶやいた。
取り調べではまず四人が引き出されて踏絵を踏まされることになるが、だれも踏まない。そこで、そのうち片眼の長吉だけが残され、見せしめのために首を斬(き)られた。この時も神は沈黙していた。
それから十日ほどたった後、残りの三人は海岸に引き出され、そこに平戸で捕えられたガルペが連れてこられた。役人は三人の信徒たちの体にこもを巻き、沖に舟を漕ぎ出した。ガルペが「転ぶ」と一言いえば、三人の命は助けようという。しかしガルペは何もいわずに走り出し、海に飛び込んで、「我等の祈りを…聞き給え」と叫びながら小舟に近づいていった。そこで役人は三人を舟ばたに立たせ、槍(やり)の柄で一人ひとり勢いよく押した。三人のこもに包まれた体は次々とあっけないほどの早さで垂直に海に消えて行き、間もなくガルペ自身も波に呑(の)まれてしまった。
それからロドリゴは、閉じこめられた部屋の中で、日がな一日壁を向きながら、それまでのことを考え続けた。長崎に上陸したのは五月のことであったが、やがて盆が過ぎ、九月となる。もういいころだと考えた井上筑後守の指図で、ロドリゴは先に転んだフェレイラ教父と会わせられる。フェレイラは日本に二十数年、地区長(スペリオ)という最高の重職にあり、ロドリゴは修道院で彼から学んだ。ロドリゴたちが布教の絶望的になった日本に渡ったのも、フェレイラが棄教したということが信じられず、事の真相を自分の眼で突き止めたいからでもあった。
フェレイラはロドリゴに、「お前が転ぶよう、奨めろと…私はいわれてきた」と言い、「これを見るがいい」と自分の耳の傷跡を見せた。それは穴吊りという拷問の跡で、穴吊りとは、手足が動ないようにして逆さに穴に吊るすものである。そのままでは即座に絶命するので、耳のうしろに穴をあけて、一滴一滴血がしたたるようにしたものであった。
会ったその翌日、ロドリゴは転べ、転べとしつこく迫る通辞の声にも耳を貸さず、裸馬に乗せられて市中を引き回された後、奉行所で長い取り調べを受け、真夜中に、背中を突かれて真暗な囲いの中に入れられる。突然、悪臭が鼻を突き上げてきた。尿の臭いである。手で壁を探ると、ラテン語で「讃えよ、主よ」と刻みつけられているのが分かった。ここに恐らく一人の宣教師が投げこまれ、次に来る者たちのためこう刻み残していったのだろうとロドリゴは感動した。
遠くからいびきが聞こえる。……そのうちそのいびきが気になって壁をこぶしでたたき始めた。すると、閂(かんぬき)をはずす音がして通辞が現れた。再び、「ただ転ぶと一言申せばすべてが楽になる」と言う。「私はただあのいびきが気になるだけだ」と言うと、通辞の後ろに立っていたフェレイラが、思いもかけず、「あれは、いびきではない。穴吊りにかけられた信徒たちの呻(うめ)いている声だ」と教えた。
「讃えよ、主よ」という文字は自分が刻んだものだとフェレイラはいい、「私が転んだのは、穴に吊られたからではない。三日間…このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切るという言葉を言わなかったぞ。わしが転んだのはな、そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」と吼(ほ)えるような叫びを上げた。
役人は、お前が転べばあの者たちはすぐに穴から引き揚げて、薬もつけよう。彼らはもう幾度も転ぶといった。だがお前が転ばぬ限り百姓たちを助けるわけにはいかないという。そこでとうとう、こんな時、基督(キリスト)だったらどうするかと問うてみたとフェレイラはいう。
フェレイラは一瞬、沈黙した後、すぐはっきりと力強くいった。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう……愛のために、自分のすべてを犠牲にしても」。
ここまでいわれてロドリゴは、長いためらいの後ついに踏絵を踏む決意をするに至る。
ここには、神に仕え、信徒に仕えることを自分の生命より大切なことと固く信じてきた司祭が、踏絵を踏まざるを得ないところにまで追い込まれていく限界状況が、事細かにみごとに描き抜かれている。
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次回は、「踏絵を踏む司祭」をお届けします。