2022.12.18 17:00
第5部 近世に活躍した宗教人
⑧マーティン・ルーサー・キング
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
非暴力に徹し黒人差別撤廃運動
アメリカの黒人差別撤廃運動を指導したマーティン・ルーサー・キング(1929-68)。彼は、キリストの教えである「汝の敵を愛せよ」をモットーに、インド独立のために非暴力運動を展開したマハトマ・ガンジーの精神に基づきながら、アメリカ社会に根強く残っていた黒人差別問題を撤廃するために死力を尽くしました。
父が宗教改革者ルターにならい、名前を変える
彼はジョージア州アトランタ市に生まれます。祖父はバプテスト教会の牧師、父も牧師、母は結婚する前は学校の教師をしていたという家庭で育ちました。
彼には仲良しの白人の友人がいましたが、6歳の時に別々の小学校に入学。
友人宅を訪ねた時、その親が「今後、一緒に遊んではいけない」と禁じ、人種差別を初めて知ります。ショックを受ける彼に、母が人種差別について話し、「決して劣等感を持ってはいけない」と諭しました。彼は、父と同じマイケル・ルーサー・キングJr.という名でしたが、宗教改革者マルティン・ルターを尊敬していた父は、この時にルターのことを教え、「今からマーティン・ルーサー・キングという名前に変えよう」と言い、宗教改革者の名前を使うようになりました。
さて、アメリカの黒人はアフリカから奴隷として連れてこられた後、リンカーン大統領の南北戦争(1861-65)の時に解放されますが、しかし人種差別は根強く残り、結局、アメリカに来てから340年間、人間らしい権利が与えられることはありませんでした。
黒人は教育環境が悪く、同じ仕事をしても白人より給料が安く、また汽車の食堂車には白人席と黒人席を区別するカーテンがあり、黒人はカーテンに隠れて食事をし、バスも白人に席を譲らざるを得ず、警官も黒人に対してはぞんざいに扱うことが通例でした。
「暴力は必要ない。必要なのは愛すること」
若いころの彼は医学か法律の分野を目指そうと思っていましたが、黒人専門のモアハウス大学に在学中、学長のベンジャミン・メイズ博士の感化を受け、牧師を目指すことにしました。大学を首席で卒業し、黒人を受け入れるフィラデルフィア近くのクローザー神学校に入学。優秀な成績をあげた彼は、アメリカのどこの大学でも学べる奨学金をもらい、ボストン大学に入学。そのボストンでコレッタ・スコットと出会って結婚します。
結婚後、北部の諸教会から牧師の招聘(しょうへい)を受けますが、1954年9月、コレッタ夫人の故郷アラバマ州モントゴメリーのバプテスト教会に赴任しました。
翌55年、モントゴメリーのバス・ボイコット運動が起こります。白人のバス運転手がある黒人の老女に、白人に席を譲るよう命じた時、仕事で疲れていた老女はこれを拒否。運転手が警官を呼び、女性は逮捕されます。
このニュースは瞬く間に黒人の間に広がり、あまりの理不尽さに、ついに黒人グループが立ち上がったのです。
指導者にキング牧師が立ち、集団的なバス乗車拒否運動が展開するのです。ガンジーを尊敬する彼は「暴力は必要ない。必要なのは敵を愛することだ。何をされても白人たちを兄弟のように愛そう」と皆を指導しました。
彼の家には爆弾が投げ込まれ、脅迫電話の嫌がらせが続きました。また20回も投獄されます。ある時は鋭いペーパーナイフで胸を刺され、瀕死の重傷を負いました。それでも彼は暴力を使わずに、無抵抗主義を貫くのです。
彼の「敵をも愛する」忍耐強い闘いは、アメリカ社会を揺り動かし、各地で非暴力のボイコット運動や、自由を求める行進などが展開されていきました。
1963年には、ワシントンに25万人が結集。彼は有名な「私には夢がある」の演説をします。「私には夢があります。それはいつの日か…奴隷の息子たちと、奴隷を使っていた白人の息子たちが…1つのテーブルで兄弟のように食事ができるようになればいいのにという夢です」。
1964年、彼はノーベル平和賞を受賞しますが、68年3月、テネシー州メンフィスで凶弾に倒れました。
迫害する敵を愛し、人種差別問題を撤廃するために歩んだ彼の生涯は、交叉・交体祝福結婚を伝授しながら人種、国境、宗教の壁を撤廃するために歩んでこられた真の父母様の生涯と相通ずるものです。
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次回は、「カール・バルト」をお届けします。