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第5部 近世に活躍した宗教人
⑦アルベルト・シュヴァイツァー

(光言社『FAXニュース』通巻1268号[2007210日号]「キリスト教信仰偉人伝 李相軒先生のメッセージに登場した人々」より)

岡野 献一

 『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)

アフリカの医療にすべてささげる

 彼はイエス伝研究の神学者として、またバッハの音楽をこよなく愛するオルガン奏者として、さらには歴史をひもとく哲学者として、そして「生命への畏敬(いけい)」という彼の根本思想をもってアフリカで医療奉仕した医者として、偉大な業績を残し、1952年にノーベル平和賞を受賞しました。彼は20世紀中、最も偉大な人物の一人として歴史に記憶されています。

▲アルベルト・シュヴァイツァー

イエス伝研究史で頭角 世界的名声を博す

 さて、シュヴァイツァーは1875年、フランスとドイツの国境近くのアルザス地方に生まれます。父はプロテスタントの牧師、母は牧師の娘であり、彼は恵まれた信仰的環境の中で育っていきました。

 アルザス地方は歴史的に悲惨な戦争を経験しました。特にカトリックとプロテスタント間の宗教戦争によって多くの血が流されました。そのような悲しい歴史を通過した結果、その地には宗教的寛容が芽生え、彼の育った教会は、カトリックとプロテスタントが共に同じ教会堂を使用するという、宗教間での和合が見られました。シュヴァイツァーは後年、「私は子供ながら、カトリックとプロテスタントが同じ教会で信仰しているのを、すばらしいと感じた」と語っています。

 彼は幼少時より音楽的才能を現し、5歳で父からピアノを習い始め、9歳で教会のオルガン奏者を務めます。彼はバッハをこよなく愛します。

 やがて彼は音楽分野で認められ、28歳から毎年パリに行き、パリ・バッハ協会の定例コンサートでオルガンを伴奏。そしてバッハのオルガン曲に新しい解釈を加えたことで有名となり、出版社の依頼を受けて『バッハのオルガン全曲集』を出版。そればかりか、バッハの音楽の感動を伝えるのに従来のオルガンでは不足であると感じ、彼はオルガン自体を改良。彼の改良したオルガンは有名になっていきました。

 音楽的才能をもつ彼は、聖書をも深く愛し、16歳から18歳にかけて、将来、音楽の道に進むべきか、宗教の道に進むべきかを悩みます。やがて彼は、神学と哲学を専攻することに決め、1893年、シュトラスブルグ大学に入学。神学と哲学を学び、1899年に牧師となります。その後も神学を究め、1900年には神学博士になり、大学で講義をするようになります。

 彼は「イエス伝研究史」の分野で頭角を現し、世界的名声を博していきました。

医療奉仕のため30歳から医学を学ぶ

 さて、彼は21歳の時、自分は30歳になったら人々のために働こうと決心していました。彼は幼少時より感受性が強く、傷ついた者、差別を受ける者に対し、心を痛めていました。彼の散歩する公園には、肩を落とし、うなだれた黒人の像があり、その悲しげな黒人の顔は、生涯、彼に消えることのない深い印象を与えたのでした。

 彼はすでに30歳にして音楽、神学の分野で地位と名声を博していましたが、転機が訪れます。1904年、パリの伝道協会発行の雑誌の「コンゴの宣教師が望んでいるもの」という記事が目に留まります。それはコンゴに恐ろしい病気があり、医者が必要だという記事でした。彼はすぐさま、医者になってアフリカに行くと決心。周りの反対を押し切って、彼は30歳から8年間、医者になる勉強をします。そして1913年、看護師である妻ヘレーナと共に、アフリカのガボンのランバレネに渡り、その後、さまざまな試練を乗り越えながら、50年間にわたって、アフリカで医療奉仕に携わったのでした。

 彼はアフリカで自ら汗を流しながら奉仕。その中で、彼の根本思想である「生命への畏敬」を確立するのです。

 彼は言います。「生命と名のつくものすべてに対して、私は畏敬の念をいだかずにはいられない。生命と名のつくものすべてに、私はあわれみを感じないでいられない。それが道徳のはじまりであり基本である」と。

 「生命への畏敬」をもつ彼は、生涯34時間の短い睡眠時間の中、90歳で生涯を閉じるまで、すべてを医療奉仕にささげ、世界の人々に大きな感銘を与えました。

 彼の生き様には、神様のみ旨成就と人類の平和世界実現のために、自らの持てるすべてをささげられる真の父母様の生涯路程と相通じるものがあります。

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 次回は、「マーティン・ルーサー・キング」をお届けします。