2022.12.04 17:00
第5部 近世に活躍した宗教人
⑥ドワイト・ムーディ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
米第3次復興運動の立役者
19世紀、米国での第3次信仰復興運動を巻き起こす立役者となり、伝道や教育事業に多大な貢献をし、アジアなどの海外宣教に道筋をつけたドワイト・ムーディ(1837-99)。彼は生涯、約40年間にわたる伝道で約5千万人にみ言を伝え、100万人を救いに導きました。また、ムーディが設立したシカゴ聖書学院(ムーディ聖書学院)で大衆伝道について学んだ木村清松は、内村鑑三や中田重治と共に日本で再臨運動を展開しました。
18歳で回心 伝道に燃える
ムーディは、米国マサチューセッツ州で、9人兄弟の6番目として生まれます。幼少時に父が亡くなり、極貧の生活を余儀なくされますが、清教徒の流れをくむ信仰心の篤い母親の影響を受けながら育ちました。
母はどんなに苦しい経済状況でも、決して信仰を失わず、朝夕祈り、み言を読みながら過ごしました。兄弟は生活を助けるために、学校は冬に行き、夏は近所の農家で牛飼いとして働きました。そういう中でも、兄弟たちはみな毎日曜の朝、教会の日曜学校に出席したのです。
ムーディは16歳の時、靴屋の店員となります。彼は非常に商才に富み、彼の手に掛かった客は誰もが靴を買ったといいます。商才のある彼は、豪商になる夢を抱いていました。ところが18歳で、回心を経験してからは、伝道に燃えるようになっていくのです。
ムーディは20歳の時、日曜学校の教師である友人が、病気で郷里に帰らざるを得なくなった際、その友人と受け持ちの生徒を訪ねました。その友人は、地上での最後の働きとして全員を救いに導きます。人の魂を救うことの貴さを経験したムーディは、かなりの収入があった靴屋の店員を辞めて、伝道に献身するようになるのです。
1863年、彼はシカゴに超教派の教会を設立。3年後にシカゴYMCAの会長となって、数多くの青年たちに感化を及ぼすようになっていきます。
ところが71年、「シカゴ全滅」といわれるほどの火事が起こります。教会や日曜学校は焼失。彼は裸一貫となりますが、幸いにも聖書と妻子だけは無事でした。当時、彼のために熱心に祈る3人の婦人の祈りの基台に支えられ、彼は約束していた英国伝道に出発します。ゴスペル歌手、サンキーの協力を得て、英国では伝道のリバイバルが巻き起こるのです。「ムーディは福音を説き、サンキーは福音を歌う」というポスターが町中に張り出され、伝道集会は大盛況。至る所で長蛇の列ができました。
全米で信仰のリバイバル運動
英国伝道の2年間、ムーディとサンキーは16ページの聖歌集を出版。それが爆発的に売れ、巨額の印税が入ります。その後、聖歌集は1200曲を収録したものとなり、世界で5億冊が売れたといわれます。神のみ旨に燃える彼らは、その収入すべてを神のみ旨に用いました。
帰国後、ボストン、フィラデルフィア、ニューヨーク、サンフランシスコなど、全米に足をのばして、各地で信仰のリバイバル運動を巻き起こしていきます。
全米の日曜学校の基礎を固める中で、79年は女子のためのノースフィールド神学校を設立。81年は海外宣教師を数多く輩出したマウント・ハーモン・スクールを設立。89年はシカゴ聖書学院を設立します。
ムーディは86年の夏、マウント・ハーモン・スクールで、宣教師になる志をもつ学生を集めて夏期学校を開催。約200人の参加者のうち100人が海外宣教を志願。彼らは「マウント・ハーモンの100人」と呼ばれ、その後「世界の福音化」をスローガンに、アジアなど全世界に向け、宣教師として続々出発していきました。
ムーディが設立した学校の卒業生は世界で活躍。伝道、教育、社会事業など各分野で活発な働きをしています。
また、膨大な資金を投資して「ムーディ科学研究所」が設立され、伝道用の映画『創造の神』『自然界の神秘』など多数を制作、日本でも伝道に用いられました。これらの映画は、進化論の影響が強まる中にあっても、多くの若者の心をとらえ、伝道に成果を上げました。
ムーディは再臨主誕生の1920年の時に合わせ、またアジアに福音の種をまくため、主の道を直くする人物として神が米国に遣わした人だといえます。
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次回は、「アルベルト・シュヴァイツァー」をお届けします。