2022.11.27 17:00
第5部 近世に活躍した宗教人
⑤ジョナサン・エドワーズ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
米国を植民地時代に復興
ヨーロッパで迫害されたピューリタン(清教徒)たちが信教の自由を求め、続々とアメリカ大陸に移住して来ました。その代表者が、1620年、メイフラワー号に乗ってやって来たピルグリム・ファーザーズたちです。
牧会・伝道に専念しつつみ言を研究
その後、経済的な利益と成功を求める移住者が増えて、17世紀末には、徐々にピューリタン精神の影響力が衰えを見せ始めていました。
その信仰の危機を救い、アメリカに第1次信仰復興運動を巻き起こした中心人物がジョナサン・エドワーズ(1703-58)です。
ジョナサン・エドワーズはアメリカのコネティカット州に生まれます。
父はハーバード大学出身の牧師で、母はピューリタン植民地の基礎の確立に貢献した総督ジョン・ウィンスロップの血を受け継ぐ名門の出でした。
彼は13歳でエール大学に入学し、1720年に首席で卒業。早熟な知力を現します。彼は在学中に信仰的覚醒を経験し、次のように述べています。
「かかる経験の後、あらゆるものの中に、神の栄光が顕(あらわ)れているように感じられた。太陽、月、星、雲、草…すべての自然の中に。私はときに、長い間、静かに座って月を眺めた。…私の唇には、神様をたたえる賛美の歌があふれた…」
卒業後、2年ほど長老派の牧師をし、その後エール大学で助教授をしますが、1727年、母方の祖父ソロモン・ストッダードの牧するコネティカット州ノーサンプトンの教会に招かれて牧会をします。2年後、祖父が亡くなると、教会員の賛成を受けて牧師に正式就任。彼は会衆に説教を行い、その地域全体に信仰の火をつけます。その信仰復興運動はジョージ・ホィットフィールド(1714-70)という強力な協力者を得て最高潮に達していきました。
彼は1750年までの23年間、ノーサンプトンの教会で牧会と伝道に専念しましたが、その間、病者や助けを必要とする者は必ず訪問し、訪ねて来る者を歓迎しました。また、招きに応じて諸教会で説教や講演をし、多くの教会を助けたのでした。そのように牧会や伝道に忙しく専念する中においても、彼は1日平均13時間を書斎で過ごし、み言研究に専念したというのには驚かされます。
彼の信仰の原点はみ言研究にありました。彼がいかに聖書を愛読し、研究したのかは、その著作の至るところに現れています。彼は『決意録』で次のように述べています。「聖書をしっかりと、常に、絶え間なく研究し、聖書の知識に、自分自身が真実に成長していることを感知し得るように努めることを決意する」と。
米建国40年前、第1次信仰復興運動の中心に
ところで、経済的な利益を求める移住者が増えると同時に、悔悛の経験をもたない第二世代も増え、幼児洗礼のレベルのままにとどまり、信仰告白をしない者にも聖餐式参与が許されるのかが問題となったころの1677年、彼の祖父ストッダードは、悔悛に役立つかもしれないという理由から、未悔悛の教会員でも聖餐式にあずかれることにしましたが、それをストッダード主義といいます。
伝道とみ言研究に燃えていたエドワーズは、そのストッダード主義を容認できず、やがて教会員との間で意見の衝突を招き、1750年に教会を去る羽目になります。
その後において、エドワーズは数々の神学書を著し、「ニューイングランド神学」と呼ばれる神学を構築していくようになります。これらの著作によって、彼は偉大な神学者としても知られるようになりました。
アメリカ建国は1776年。それに先立つ約40年前、ジョナサン・エドワーズを中心に第1次信仰復興運動が起こることによって、分裂していたアメリカに結束をもたらしました。この信仰復興がなければ、一体化の欠如していた植民地が、イギリスに対して統一戦線を組み、独立を勝ち取っていくのは不可能だったことでしょう。
また、この信教の自由の国アメリカがなければ、真の父母様は韓国キリスト教の失敗を蕩減復帰するため、新たな基台を求めてアメリカに渡って、現在の勝利基準を立てていくことは、極めて困難だったと思われます。
神の摂理は、再臨主を迎える環境を整えるため、時にかなって必要な人物を起こし準備されるということを、彼の生涯を通して感じさせられます。
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次回は、「ドワイト・ムーディ」をお届けします。