2022.11.20 17:00
第5部 近世に活躍した宗教人
④ツィンツェンドルフ
岡野 献一
『FAXニュース』で連載した「キリスト教信仰偉人伝」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部が加筆・修正)
キリスト教が復興、再臨基台となる
シュペーネル(1635-1705)を祖とするドイツ敬虔(けいけん)派の興隆に大きく貢献したザクセンの貴族ツィンツェンドルフ伯(1700-60)。彼は、ヤン・フスの流れをくむモラヴィア兄弟団が迫害から逃れてきたところを自らの領土内で保護して復興させます。また、メソジスト派を起こしたウェスレー(1703-91)にも大きな影響を与えました。彼は新時代の先駆者とも呼ぶべき人物です。
生涯貫く信念は世界宣教
宗教改革の後のドイツは、カトリック教会とプロテスタントの対立が激化。それが30年戦争(1618-48)を引き起こし、ドイツ国民の半数以上が戦場に倒れます。人心はすさみ、道徳は地に落ち、神を恐れかしこむ敬虔さが消え果てるかのように思われた時、シュペーネルが投じた敬虔派の霊的な火を、さらに大きく燃え上がらせたのがツィンツェンドルフです。
ツィンツェンドルフは、ザクセン内閣に属する貴族を父として、ドレスデンで生まれます。伯爵であった父は、生後6週間後に他界。彼は父の顔を知らずに育ちます。
4歳の時に母が再婚。ベルリンに赴き、そこで母方の祖母である男爵夫人のもとで養育されます。その祖母はシュペーネルの知人であり、さらに、叔母および彼を10歳まで教育した家庭教師もまた熱心な敬虔派の信仰を持っていました。彼は幼少期、これら敬虔派の信者たちの影響を受けながら育っていきました。
10歳で、シュペーネルの弟子フランケがハレに設立した学校に入学。彼は生徒間の宗教指導者になり、敬虔な仲間たちと「からしだね団」を結成。このグループは世界宣教を目指しており、当時、教会内の神学論争に明け暮れて顧みられることのなかった外へと向かう思い、すなわち異教徒への伝道に心を燃やしていました。彼の生涯を貫いた信念は「世界宣教」でした。
16歳でヴィッテンベルク大学に入学。神学研究を志しますが、貴族の子弟を一介の説教者で終わらせることを良しとしない伯父(おじ)をはじめ、彼を敬虔派に導いた祖母を含め親族が反対。彼はやむを得ず法学の研究に取り組みますが、秘かに神学書をも学び続けました。
自己の財産投じ宣教師を派遣
大学を卒業した彼は、貴族の慣例に倣ってヨーロッパを旅行。ある美術館で、十字架のキリストの絵の下に「我は汝のため命を捨つ。汝は我がため何をためせしや」と書かれた言葉に心奪われ、神への献身を決意するのです。
21歳でザクセンに帰郷。フランケから聖書館を主宰するよう招聘(しょうへい)を受けます。しかしこの時も親族が阻止。ザクセン政府の司法議官となります。
翌年、祖母の領地を譲り受けて自分の荘園を持ちますが、その時、迫害から逃れてきたフス派の人々の窮状に同情し、彼らを領地で保護。迫害に苦しんだフス派の人々は不思議な神の導きに感嘆。その地をヘルンフート(主の守り)と称し、敬虔な生活を営みます。
ツィンツェンドルフは27歳の時、モラヴィア兄弟団の信仰に深く共鳴。37歳でモラヴィア兄弟団の監督となります。自己の財産を投じ、その生活は祈祷と礼拝、労働に励むという修道院的なもので、俗化を排し、高潔な生活を志すものでした。伝道意欲に燃え、宣教師を西インド諸島や北米に派遣。その熱烈な活動ぶりは非難の的となり、1736年、ザクセンを追放されます。しかし迫害に屈せず「巡礼者の教会」を設立。
伝道旅行をし、オランダ、イギリスをはじめ各地に教会を設立、海外宣教に10年余、身を投じます。その業績を認めたザクセン政府は49年に追放解除。むしろ領土内に教団設立を促すのです。歴史的に故郷で敬われることのなかった預言者が還故郷をし、敬われたのでした。
イギリスのウィクリフの教えはボヘミヤのフスに影響を与え、そのフス派からモラヴィア兄弟団が生まれます。ツィンツェンドルフを指導者に迎えたその教団はウェスレーに影響を与え、イギリスでメソジスト派を興します。これらの霊的連動は、奇(く)しき神の導きの中でイギリス、アメリカを基盤とするキリスト教圏を復興させ、再臨摂理の基台となっていったのです。
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次回は、「ジョナサン・エドワーズ」をお届けします。