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勝共思想入門 16

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第四章 人間であること

一 理性的人間観

(三)弱体化の理由
 理性が人間を他の動物と区別するものであるという考え方は分かりやすく、また自然でもあります。しかし、もしそうであるならば、現実に繰り広げられる社会の姿はとても理解に苦しむものであったのです。特に、19世紀の後半ともなると、社会生活に大変革が起きつつある時であり、また、その速度は急激でした。いわゆる産業革命と、初期資本主義社会の始まりです。

 それまでの人々の生活は、政治的にも、経済的にも、地位の差は非常に大きいものであったにせよ、安定していました。奴隷制の社会、封建制の社会と仕組みは変わっても、その人間関係の上下の名称が変化したくらいで、最下層にある人々や、中間層にある人々にとってはそれほど暮らし向きに変化があるようなものではなかったといえましょう。

 しかし、初期資本主義社会の出現は、権力と富の構造の大変革をもたらしたのです。そして、富をつかむことのみを目的とする職業は、極端にいえば汚れた職とみなされてきた考え方(宗教改革の職業聖職論の影響は大きい)が一掃され、富の追求、利潤の追求を生活のすべてとする資本家が、富と力を持つようになってきたのです。

 こうして社会の構造の大変革の中で、多くの貧しい、それもいつ生活できなくなるかもしれない不安とおののきの中で生活する人々を生み出したのです。このような現実が直接、その人々の心に訴えかけるのです。何とかならないのかと。

 もし、人間が理性を本質とする存在であるならば、すべての人の理性の求める「自由で平等で幸福な社会の実現」(=“自然法”といわれています)ができるはずなのに、現実にはそのようにできていない。そして、その理性は共通なのだから一致できるはずなのにその一致もできていない。ということは、理性的人間観というのは単に頭の中だけで考え出された抽象的なものであって、具体的、現実的な人間をつかむことなどできるものではないのだという方向に流れていくことになったのです。

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 次回は、「感性的人間観としての共産主義」をお届けします。

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