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勝共思想入門 15

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「勝共思想入門」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 同書は、40日研修教材シリーズの一つとして、1990年に発行されました。(一部、編集部が加筆・修正)

光言社・刊

第四章 人間であること

一 理性的人間観

(二)理性的人間観
 理性が人間の本質であるという考え方は、決して近世から始まったというものではありません。その歴史は非常に古く、古代ギリシャ時代、ソクラテスのころよりのものです。そのころから、真理は肉体のもつ感覚的能力によってはとらえられず、理性によってのみとらえられ認識できるものと考えられていました。ですから当然、感覚も、それをもつ肉体も価値あるものとは見られず、そのようなものは動物も同じくもつものなので、感覚的な生き方というのは動物的な生き方であって真の人間的な生き方ではないとされてきたのです。そして、この理性は肉体と結びついているのではなく、その存在しているところは霊魂にあるとされ、霊魂は不滅であるので、霊魂のもつ能力、すなわち理性に従う生き方は不滅の価値をもつ生き方であるとして尊く思われたのです。

 そして、その理性によって絶対者である神につながっている、それが人間であるとしたのです。ここから人間が正しく理性を用いて生活すれば神の心に従った生活ができるようになり、真理をつかむことができると、さらにこの理性はすべての人間に共通なものであるから、どんな人間も正しく理性を用いるようになれば、調和のとれた平和な社会をつくり出すことができるはずだとされたのです。

 この理性的人間観を近世において再確立した人といえば、有名なデカルト(Descartes 15961650)です。「我思う、故に我あり」とは聞いたことがあると思います。どんなに疑っても、疑っている自分自身が存在しているということ自体は疑うことができない、はっきりとした真理であるという意味です。デカルトは、このことが示すほどに理性にとって明らかなことは真理として認められるとして、理性は真理をつかむことができる能力であるとしたのです。

 さて、もう一つ重要な概念があります。それは「自由」ということです。

 自由とは、この文字の表すように「自らに由(よ)る」ということです。もし、人間が、感覚に従って生活しているとしたら、それは「自らに由る」のではなく、外部の環境に左右されながら生活しているということですから、自由はないのです。自由であるためには、外部の環境によって左右されないものによって、それも自分自身の内から発するものによって生活するということでなければならないはずです。

 それが理性なのです。このことから、人間に自由があるのは、理性を中心として生活する存在が、人間としての真の姿であるからだ、ということになり、自由は、人間の人間たる証(あかし)であるということになるのです。

 そして、このように自由によって、つまり他のだれからでもなく「自らに由って」生活し得る人間、また生活すべき人間であるがゆえに、その行為の結果に対しては“責任”を負わねばならないということになります。こうして、“自由”と“責任”という考え方は、人間の本質が理性であるというところから初めていえることになるのです。

 長い伝統をもち、近世において新しい力を得て人間の見方の主流となってきたこの理性的人間観ですが、19世紀の後半になってきますと次第に弱体化していく傾向が見え始めます。そしてその後、一時期は他の人間観の拡大のもとに影を潜める結果となってしまったのです。その原因について触れておきたいと思います。

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 次回は、「理性的人間観-弱体化の理由」をお届けします。

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