2022.12.11 22:00
創世記第3章[12]
万物に対する主管性の喪失
太田 朝久
太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。
キリスト教は、人間の堕落によって、この被造世界は変質を遂げてしまっていると考える傾向性を持っています。その考え方は「(蛇)は野の…獣のうち、最ものろわれ…腹で、這いあるき…ちりを食べる」(創世記3章14節)「産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む」(16節)「地は…のろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地は…いばらとあざみとを生じ…」(17~19節)などの聖句を文字通りに解釈するところから生じているものです。
堕落により人間の授受関係が変質
それに対して「統一原理」では、人間の堕落によって被造世界が存在論的な意味で変質を遂げてしまったわけではないとみています。
『原理講論』に「(堕落人間は)神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず…隣人の苦痛を自分のものとして体恤(たいじゅつ)することができないために、ついには隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまった」(137ページ)
「(人間が堕落したために)被造物が嘆息している」(84ページ)とあるように、堕落によって変質したのは、人間同士の授受の関係性が崩壊したことであり、かつ万物に対しても真(まこと)の愛による主管性を喪失したことであるとみています。つまり「為に生きる」ことのできなくなった世界こそが、いわゆる地獄であると考えています。
従って「統一原理」は、堕落したから蛇がちりを食べるようになり、産みの苦しみが生じるようになり、茨(いばら)とアザミが生じるようになったのだとは考えません。
ちりを食べるとは、天使が「天より追い出されることによって、神からの生命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きてゆく」(『原理講論』104ページ)ことを象徴しているのであり、また、本然の世界には産みの苦しみがないのではなく、真の愛によって苦しみを乗り越えて行けるだけの喜びがあったにもかかわらず、堕落することによって授受作用の関係性が崩壊したので、より苦しみが増してしまったことを表現しているのであり、さらに、堕落したので茨とアザミが生じたのではなく、人間が万物を「真の愛」によって主管することができなくなった状態を、そのように表現しているのだと言えます。
神様は人を基準に被造世界を創造
キリスト教は全てを善・悪という概念から捉えてしまい、陽・陰の概念を拒否する傾向性を持っています。すなわち「統一原理」が陽(男)と陰(女)という観点から見ていることをも、全て善・悪という観点からしか見ようとしません。
「統一原理」は、神様は陽陰の相対性によって自然界を多様に創造されたとみています。故にバラのような優雅な花もあれば、すみれのような可憐な花もあると捉えています。つまり茨やアザミは、陽(男)と陰(女)をもって創造された植物であり、それらも陽陰の一つの表現形式であるとみています。
ところがキリスト教は、全てを善悪の観点でしか見ようとしないので、天国(本然の世界)には茨やアザミという刺(とげ)のある植物があってはいけないと考える傾向性を持っているのです。
ところで、創世記1章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とありますが、神様はその人間を標本にしながら被造世界を創造されたので、従って万物にも神の陽陰が象徴的に表れているのだと「統一原理」ではみています。
それに対して、反対牧師らは「神は『万物』を自分のかたちに似せて造ったのではなく、『人』を自分のかたちに似せて造ったのである」といって、浅はかな批判をしています。
創世記2章を読むと、神様は「人がひとりでいるのは良くない…ふさわしい助け手を造ろう」と言われ、そして万物を造られたと記されています。
究極的には、アダム(人)にとっての理想相対(=助け手)はエバしかあり得ませんが、しかし神様が「助け手」になるようにと考えて万物を造り、アダム(人)のところへわざわざ連れて来られたということは、万物にもアダムとエバという関係性に似て、アダムの相対圏となり得るものが象徴的に賦与されているということを示しています。
つまり神様はご自分のかたちに人を似せてつくられましたが、その「人」を標本、あるいは存在の基準として想定しながら被造世界を創造されたので、万物にも、人間に展開された神のかたち(性形、陽陰)が象徴的に表れているのだと言えます。「万物は…みな御子(キリスト=個性を完成したアダム)にあって造られた」(コロサイ1・16、ヘブル1・2)という聖句はまさにそのような原理を述べていると言えます。
結局、堕落によって茨やアザミが生じたのではなく、あくまでも万物に対する主管性の喪失を、聖書は表現したのだと言えます。
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次回は、「創世記第3章[13]『おまえは彼のかかとを砕く』の解釈」をお届けします。