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創世記第3章[13]
「おまえは彼のかかとを砕く」の解釈

(光言社『FAX-NEWS』より)

太田 朝久

 太田朝久氏(現・神日本家庭連合教理研究院院長)・著「統一原理から見た聖書研究」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 世界のベストセラーといわれる『聖書』。この書を通じて神は人類に何を語りかけてきたのか。統一原理の観点から読み解きます。

1)「おまえは彼のかかとを砕く」の解釈
 キリスト教は、創世記315節の「私は恨みをおく、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」を十字架の預言として解釈し、それを「原福音」と呼んできました。反対牧師らは、イエス様の十字架は100パーセント予定であり、二次的な予定であったと説く「統一原理」は間違いであると批判しています。

 ところが、著名な神学者フォン・ラートは、それを十字架の預言とは見なさず、「それは…種と種の戦い…であり(『あなたの子孫と彼女の子孫の間』)…何らかのヒロイズムによって勝利に導かれるような見込みや希望のまったく持てないものである」と解釈しています。

 「統一原理」は人類歴史を、人間対天使における善悪の闘争歴史だとみており、そのような観点からみた場合に、フォン・ラートの解釈には一理あるといえます。

 しかし「喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって悲しみに満ちた罪悪世界となり、これが永続する…のであれば、神は創造に失敗した無能な神となってしまう…故に、神は必ずこの罪悪世界を救わなければならない」(『原理講論』138ページ)という観点からみるとき、第1アダムの失敗を、必ず第2、第3のアダムが清算して救済摂理を完結させなければならないので、キリスト教の伝統的解釈のように315節を十字架の預言とみるのは妥当なことといえます。

 ただしキリスト教がイエス様の「肉体の死」(生物学的死)によって罪が清算されるとみるのに対し、「統一原理」は堕落による死を「霊的死」のみと考えているので、贖罪(しょくざい)の本質は心情の十字架にあるとみている点で違いがあります。

 文先生のみ言「メシヤとは、この地上に来て、神よりもっと苦悩し、神よりもっと涙し、神よりもっと働き、地獄の底のような苦難の中に自らを陥れながら、そこから自分で上がってきて神を慰め、神の涙を喜びの涙に変えるように運命づけられている人である」(1078.3.1)は、十字架が肉体の死ではなく、内的なものであることを示しています。それ故、315節は「内的な十字架」の預言であるとみるべきでしょう。

2)アダムの完成期はサタンの不可侵圏
 さて、創世記15章のアブラハムの象徴献祭で暗示されていることですが、エバは「直接」実体をもって天使長の主管圏へと堕ちてしまい、成長期間の全てがサタンの侵害を受けたので、サタン分立のために、蘇生・長成・完成期を象徴する山鳩・雌山羊・雌牛を献祭しています。

 一方、アダムは「妾」の立場に立った堕落エバを通じ、長成期完成級において「間接的」に天使長の主管圏へと堕ちた(サタン側への血統転換)ので、蘇生・長成期しかサタンの侵害を受けていないので、サタン分立のために蘇生・長成期を象徴する家鳩・雄羊だけを献祭しています。

 故に空欄となっている完成期とは「サタンの不可侵圏」を意味しており、またそれは、サタン分立の必要性のない存在、すなわちメシヤを象徴しています。そのことはサタン分立の摂理を行った基台の上で、地上にメシヤを遣わすことのできる原理的な条件がいまだ残っているということを示しています。

 メシヤとは「生命の木」を意味しており、かつアダムの完成期は、いまだサタンの不可侵圏となっているという原理的な条件が残っていることを、「神は…命の木の道を守らせられた」と表現したのだといえます。

 なお、命の木である完成したアダム(人類の真〈まこと〉の父)を迎えたならば、堕落圏から人類の真の母としてのエバを復帰し、その真の母を復帰した基台の上で、堕落エバが聖酒式によって甘柿である真のアダムと霊的一体化し、次に渋柿である堕落圏の男性(天使長の立場)が聖酒式によって血統転換され、幹をバサッと切った立場にある男性へ甘柿の枝(復帰エバ)を接げば「接ぎ木」がなされ、実体において甘柿が実るようになります。

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 「統一原理から見た聖書研究」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。